時計の秒針音

少しずつコツコツ意味を貯めてく

王様の椅子に座らない

自転車で道を通っているとき,向こうからおじさんが歩いてきた.道幅は狭くおじさんは下を見てスマホをいじっていた.僕は中央から車線横ぎりぎりに寄ったがおじさんはこちらに気づいた様子はあったが,まったく移動しなく,むしろ「お前が移動するのが普通だろ,自転車は人を轢いたら有責になるんだからな」といった調子だった(実際は言われていない).確かに自転車と人がぶつかった場合,どのような状況であったとしても自転車が悪くなる,それは間違いない.だとしても,少しは避ける素振りをしても良いのではないだろうか.そういった話.

 

素振りを見せるということは,かなり重要なコミュニケーションだと感じている.「その権利は当然だ」という態度でいることは,どんな状況であったとしてもあまり良い気持ちのするものではない.もちろん権利はその人個人に存在しており,それは行使されなければならないものであるけれど,ほんの少しだけ気を使い合うだけでもっと円滑に角が立たないように生きられるんじゃないかと思う.

少し前に,赤ちゃんを生んだばかりの女性が「赤ちゃんは泣くことが仕事なんだから,バスや電車で大声で泣いてもそれは当たり前なことであり,母親である私がわざわざ申し訳無さそうにする必要なんてない.」のようなツイートに相当数のいいねがついていたのを覚えている.確かに言っていることはわかる.赤ちゃんは泣くことが仕事で,みんな小さな頃は赤ちゃんでうるさいくらいに泣いていたはずだ.それに対して,「赤ん坊をバスに乗せるな!/電車に乗せるな!」と言ったことを言うのは非道徳的だ.ただ,だからといって「赤ちゃんは泣き叫ぶものだから,私があやしたところでどうにもならないから何もしない.」という考え方はどうだろうかと思う.例えば,一方バス車内に連日の仕事でほとんど寝れておらず,やっと帰宅できるとバスに乗り込んだサラリーマンがいたとして,赤ちゃんの泣き叫ぶ声が耳に刺さり,母親を見るとスマホをいじっている.これに対して「赤ちゃんは泣くものだから仕方ないな」と思えるほど広い心を持てる人は少ないと思う.

 

いや,泣くのは仕方がないけれど,自分も疲れていてすごく落ち込んだ気持ちで,でも人に迷惑をかけないように,椅子に座ったとしても小さく座るし,バックはお腹の前に抱えるし,年配の方がいれば席を譲る.そうやって気を使う素振りを見るだけで,「みんな頑張っているんだな」と我慢できることがあるはずと思う.

 

例えばこの場合だと,お母さんが赤ちゃんを泣き止ませようとする素振りを見せる,という行為がかなり重要だったんじゃないかと感じる.(これは賛否両論ありそうだけれど.)

お母さんは赤ちゃんの泣き叫ぶ声によって誰かに迷惑をかけていると思い泣き止ませようとしたが泣き止まない.それに対して,例えば近くのご老人が「赤ちゃんは泣くのが仕事だからねぇ,元気に泣いてしっかり育つんだよ」とか「お母さんも大変だねぇ,でもここにいる人たちはみんな昔は赤ちゃんだったんだから,あなたの辛さも理解できる.おつかれさま」とかがあれば一気に和やかな雰囲気になると思う.

みんな疲れているし,みんな頑張っている.だからこそ,少しずつ相手の気持ちを思いやって気をつかうことが,生活の質を高める方法なんだと思う.

その一つの方法が「素振りを見せる」だと思うんだけれど,どうだろう?

 

当然の権利として,その椅子に座って生活してしまうと反感を受けやすい.王様の椅子に座ったからといって偉いわけではないのだ.

僕は優しく生きていたいな.