僕はポルノグラフティの「アゲハ蝶」の世界にずっと囚われている.
先日,三秋縋さんのツイートでこんなのがあった.
「あらかじめ失われた青春の幻影を追い求めるうちに、喪失の確認行為そのものが目的にすり替わった人々」の概念については、僕も一度ちゃんと整理しておきたいんですよね。二度と戻れない、決して触れられない、初めから存在しない、だからこそ永遠の輝きを放つ青空のむこうの少年少女に焦がれる人々。
— 三秋 縋 (@everb1ue) November 23, 2018
「二度と戻れない、決して触れられない、初めから存在しない、だからこそ永遠の輝きを放つ青空のむこうの少年少女」に焦がれる人々
非常に滑稽だが,「僕のことだ」と思った.正確には僕もこの人々に一人なのか,と気づいた.
僕は,詩を書く時,多くの場合少年と少女を題材にしいている.
無垢で汚れのない少女と,それを見守り追いつこうとする少年.この少年は,実は僕の理想だったりする.
自分の中にある汚れた部分は全て取り払って脱ぎ捨て,残ったところだけ,純粋な部分だけをろ過した存在でいたい.
小学1年生の頃,毎月課題曲が決まり,朝の会などで歌わされた.その時にポルノグラフティのアゲハ蝶と出会った.僕とJPOPの邂逅のときでもある.
「ひらりひらりと舞い遊ぶように姿見せたアゲハ蝶
夏の夜の真ん中月の下
喜びとしてのイエロウ
憂いを帯びたブルーに
夜の果てに似ている漆黒の羽」
僕は虫が嫌いだ,だけれど,この歌に見えるアゲハ蝶は世界で一番美しいと思ったし,
そこには女性的な雰囲気もあると思った.
(なぜかこの曲だけ,高学年が発表会の時に劇のような物をやっていた気がする.
青いビニールシートをオアシスにたとえて,たくさんのアゲハ蝶が舞うといった劇だったような.)
「あなたが望むのならこの身などいつでも差し出していい
降り注ぐ火の粉の盾になろう
ただそこに一握り残った僕の想いを掬い上げて心の隅において」
僕はこの世界から抜け出せなくなってしまった.
非現実に心を奪われてから,もう18年くらい経つなと思った.決して無いその世界にしか希望を見いだせず,僕には作り出すことしかできない.
心に穴が常に空いていて,それを埋めるために必死に言葉を吐き出すんだけれど,穴に吸い込まれるだけで穴が埋まることがない.その穴が三秋さんが言っていた永遠の輝きなんじゃないかと認識している.
青春の煌きか,輝きかはわからないけれど,そこに理想の世界線を作り出して,どうしても手を伸ばそうとしてしまう.決して届かないのに.どうにかその理想の世界にたどり着きたいと思ってしまい,一人で自転車を漕いでいる夜にオリオン座に手を伸ばしてしまったり,電車の中でメタ的な思考をとったりしてしまう.笑っちゃうよね.
電車線路に飛び降りる瞬間は,誰からの視線も受けるので世界の中心にいる気分になるし,その瞬間だけは映画のようなドラマのような感覚になるんじゃないかなとずっと思っている.物語の主人公になるため.
小学生の時から現実と非現実というのが明確に区別されていて,非現実の世界を理想と名前をつけて生きたいと切に願っていまに至る.どうにか音楽という表現の場を持つことができたから,音楽をしているときだけはその世界に足を踏み入れられている気がするし,その世界の少年少女に触れられている,いや自分がその少年少女になっているとさえ思って越に浸っている.
広大な砂漠の中で,金色の日が後ろから差し込んで,振り向きざまの少女は,非常に美しい顔をしていて,笑顔が素敵なんだ.その笑顔を見てしまうと僕は泣いてしまうんだ.そっと頬に手を触れようとして目が覚めてしまう.
僕はアゲハ蝶の世界に囚われてしまっている.