時計の秒針音

少しずつコツコツ意味を貯めてく

新年のご挨拶・決意表明

2019年あけましておめでとうございます.

2018年は激動の1年でした.今年はどうなるのでしょうか.

僕は皆さんのおかげで,芸術家として生き続けることができ,今日を迎えることができました.

 

2019年はもっと自分,バンドというものを色濃くするために,深く深く潜っていくことにしようと思っています.

一つ一つの楽曲をもう一度自分の中で咀嚼し,また新しい音楽も自分の中で改めて噛み砕いて「何の音楽なのか」ということを理解していこうとおもいます.

 

「あまりに不安定であったが,それが作る者の本質である」

 

今年から僕は,僕のありあまる才能とひらめきを信じ抜きます.なので,僕の作り出すものを否定する人には,「この人は僕の価値がわからないんだな」と感じます.(もちろん必要なことは十分に取り入れます.拒絶することとは異なることを理解して下さい.)

でないと,僕が作るものを「よい」と言ってくださる方に面目が立たないからです.

そのかわり,僕らのことを良いと言ってくれる方のことを全力で愛し,大切にします.

当たり前のことですが,僕はこれを敢えて言葉にします.

なので,ノクターンを信じてついてきてほしい.君らの愛を全力で受け止めて,絶対に離さないから. 

 

2019年頼むぞ,僕は全力で立ち向かうから,どうか背中を押してくれ.

 

僕はポルノグラフティの「アゲハ蝶」の世界にずっと囚われている.

先日,三秋縋さんのツイートでこんなのがあった.

 「二度と戻れない、決して触れられない、初めから存在しない、だからこそ永遠の輝きを放つ青空のむこうの少年少女」に焦がれる人々

非常に滑稽だが,「僕のことだ」と思った.正確には僕もこの人々に一人なのか,と気づいた.

僕は,詩を書く時,多くの場合少年と少女を題材にしいている.

無垢で汚れのない少女と,それを見守り追いつこうとする少年.この少年は,実は僕の理想だったりする.

自分の中にある汚れた部分は全て取り払って脱ぎ捨て,残ったところだけ,純粋な部分だけをろ過した存在でいたい.

 

小学1年生の頃,毎月課題曲が決まり,朝の会などで歌わされた.その時にポルノグラフティのアゲハ蝶と出会った.僕とJPOPの邂逅のときでもある.

 


ポルノグラフィティ アゲハ蝶

 

「ひらりひらりと舞い遊ぶように姿見せたアゲハ蝶

夏の夜の真ん中月の下

喜びとしてのイエロウ

憂いを帯びたブルーに

夜の果てに似ている漆黒の羽」

 

僕は虫が嫌いだ,だけれど,この歌に見えるアゲハ蝶は世界で一番美しいと思ったし,

そこには女性的な雰囲気もあると思った.

 

(なぜかこの曲だけ,高学年が発表会の時に劇のような物をやっていた気がする.

青いビニールシートをオアシスにたとえて,たくさんのアゲハ蝶が舞うといった劇だったような.)

 

「あなたが望むのならこの身などいつでも差し出していい

降り注ぐ火の粉の盾になろう

ただそこに一握り残った僕の想いを掬い上げて心の隅において」

 

僕はこの世界から抜け出せなくなってしまった.

 

 

非現実に心を奪われてから,もう18年くらい経つなと思った.決して無いその世界にしか希望を見いだせず,僕には作り出すことしかできない.

心に穴が常に空いていて,それを埋めるために必死に言葉を吐き出すんだけれど,穴に吸い込まれるだけで穴が埋まることがない.その穴が三秋さんが言っていた永遠の輝きなんじゃないかと認識している.

 

青春の煌きか,輝きかはわからないけれど,そこに理想の世界線を作り出して,どうしても手を伸ばそうとしてしまう.決して届かないのに.どうにかその理想の世界にたどり着きたいと思ってしまい,一人で自転車を漕いでいる夜にオリオン座に手を伸ばしてしまったり,電車の中でメタ的な思考をとったりしてしまう.笑っちゃうよね.

電車線路に飛び降りる瞬間は,誰からの視線も受けるので世界の中心にいる気分になるし,その瞬間だけは映画のようなドラマのような感覚になるんじゃないかなとずっと思っている.物語の主人公になるため.

 

小学生の時から現実と非現実というのが明確に区別されていて,非現実の世界を理想と名前をつけて生きたいと切に願っていまに至る.どうにか音楽という表現の場を持つことができたから,音楽をしているときだけはその世界に足を踏み入れられている気がするし,その世界の少年少女に触れられている,いや自分がその少年少女になっているとさえ思って越に浸っている.

 

広大な砂漠の中で,金色の日が後ろから差し込んで,振り向きざまの少女は,非常に美しい顔をしていて,笑顔が素敵なんだ.その笑顔を見てしまうと僕は泣いてしまうんだ.そっと頬に手を触れようとして目が覚めてしまう.

 

僕はアゲハ蝶の世界に囚われてしまっている.

11/19 初ワンマン 「まだ信じたいよ。僕らは、」

2ピースになった決意表明が6月で,8月にレコ発企画「誰かが愛した呼吸」,そして11月19日にレコ発ワンマンライブ「まだ信じたいよ。僕らは、」.

正直過密スケジュールだった.

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確か4月くらいにもうこの流れは決まっていた.

2ピース決意表明企画

レコ発企画

ワンマン

 

2018年は活動の年にすると決め,がむしゃらに頑張ったつもりだ.周りから見たらどうだっただろうか.

ライブやりすぎだったような気もする.

 

レコ発ワンマンになったのは急な話で,9月頃だったような気がする.

 

5月でした.

あ,そうか,5月にワンマンは決まって,曲をレコーディングして音源にしようとしたのは9月とかそのあたりだ.

mini albumのレコ発って決まったときから,アルバム名を「文字盤並びの人々」にするって断言した.EPとアルバムで名前の付け方に一つの一貫性をもたせている.明言はしないけど,多分すぐ気づくだろう.

 

このアルバムのできた曲順としては,夜の海岸が一番最初だった.もともと6月の企画「再考」のアンコールでやっった曲だから.この企画に来てくれた人は歌詞カード持ってるよね?捨ててないよね?笑

よかったら,このアルバムと一緒にしておくといいかもしれないね.

 

そしてステューカができた.なぜだかわからないけれど,どうしても爆撃機の曲が作りたかった.爆撃機が空から落ちてくるのと,女の子が僕には重なった.ツイキャスでも話した通りだけれど,この機体は,落ちてくる時に風を切る音がラッパの音に聞こえたらしい.その音で人々はその存在に気づきサイレンを鳴らし逃げ,隠れた.

僕と君はそのサイレンを通してでしか出会うことができない.

 

透過する光は,もともと「光源」という曲にするつもりでずっと作っていた.ただ,納得できるリフやサビ,メロディが思いつかず,苦戦していた.とりあえずの曲をねねちゃんとスタジオに入った時に何回か合わせたけど,しっくり来なくてお蔵入りにしていた.

 

その間にecletticaのリフが同時進行で完成した.確かTwitterで動画を上げた.

この曲はどうしても「ティカ」を入れたくて,色々と単語をあさっていたな.

(ちなみに間奏はレコーディング前日に決まったので,若干録り直ししていたりする...)

 

光源という曲名を一旦据え置いて,もう一度詩を見直した時に,光を見ているのは瞳だと思い出した.全ては反射していて,その反射によって物体を知覚している.ただ,透明な,例えばガラスを見る時,光は透過してしまい,見ているはずなのに見えていない状態になる.

僕の考え方の大前提に,「人は決して分かり合えない,理解し合えない」というものがある.なのに人はよく「わかる.それってこうだよね」とか言う.

結局僕は透明なままで,その透明な僕を通した世界を見て,知った気がしているだけだと気づいた.

そういう曲です.

イントロの変拍子リフは,様々に屈折する光を表していたりします.裏話.

 

Wonder fallは一瞬でできた曲で,ファズを変えたのを気にちょっと使いたくて作った曲です.

ただ,あのコード進行はとても気に入っています.メロディもわかりやすくできたと思うし,このアルバムの中で一番わかりやすく作れたと思う.

ステューカとWonder fallは僕の中ではセットで,切っても切り離せない関係なんです.だからワンマンでも離せなかった.

 

文字盤並びの人々の最後の掛け合いは,少し面白がって作った.

ちょっと遊びがあった方が絶対楽しいし,掛け合いが繰り返しの意味を含んでいたり,まああんまり全部解説すると面白くなくなっちゃうからこの辺でやめにしよう.

 

Aprilは以前のミニアルバムのリメイクだけれど,がらっと変えた.

 

レコーディングが終わって,ジャケット等のデザインをしながらのワンマンの練習は,楽しかったけれど過酷だった.

ワンマンは4部構成にして,ノクターンというバンドを0から100まで表す必要があった.通常のブッキングだと,その一瞬で表すしかないから,ピックアップした曲で印象つけるしかない.

ただ,僕らが作る曲はecletticaや雨傘と天気雨のような曲もあったり,救命するグレートヒェンみたいな曲もあったり,幅が広い.

そのため,部に分けてやる必要があった.

 

1部は導入.いわゆるノクターンとは,というのをコンセプトにセトリを組んだ.

機織り機の「さあ,今から」には色々な意味が込められている.

 

2部はアコースティックで,もっと来ていただいた方との距離を縮めたいっていう願いから組んだ.

あとちょっとポップな遊びもできるよっていうのを知ってほしかった.

 

3部は深み.暗い曲ばかりではなく,ちょっと明るかったり歌もの色が強い曲を入れた.

一緒に歌えたりすることは,一緒に生きていけることだと思っている.決してあなた達を突き放さないよ,という意味が込められていたりする.一緒に生きていこうね.

 

4部は深層心理.脳内であったり心であったり,人は決してわかり合うことができないということを,ただまとめ上げた.笑っていても,違うことで笑っているし,話したことは半分も伝わっていない.でもそれは仕方のないことだ.それが僕らであり,それを踏まえてみんな生きている.苦しかったり悲しかったり,そういう傷を持ちながら,自分の心に嘘をついて笑ったり,本当に不器用だなって思う.

だからこそ,そういう人たちと一緒に生きていくことができるとも思う.

雑踏に消えかけた君の輪郭を僕は愛しているし,不器用でも生きている君は美しい.

そして,僕の心もあなたの心も,誰も踏みにじることは決してできない,大切な聖域であり,僕らはそれを守る義務がある.

 

僕は人が嫌いだけれど,人が好きだ.

まだ信じたいんだ。僕は、

ミュウツーの逆襲でふいに泣いてしまった

妹がポケモンの初代映画「ミュウツーの逆襲」を見ていて,ふらっとテレビを覗いた手前引き込まれてしまって,そのまま最後まで見てしまったんだけれど,

あれは時代を先取りしすぎていたなと,まず思った.

科学が発展し,iPS細胞などが出てきて,「生物(クローン)を作り出す」ということが現実になってきたのはここ最近の出来事なのに,この映画が公開されたのは1998年7月18日である.20年前だ...

 

この映画の主題は「自分というものの存在意義・自分を生み出した人間への復習」

劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲 - Wikipedia

 

小さな頃は,なんとなく不安で怖い印象があったけれど,今見たときは全く別の印象を受けた.多くの人が名作と言う理由がわかった.

ミュウツーの逆襲,逆襲の相手は,自分を作った人間に対してだと思っていたけれど,本当はオリジナルに対してだったのかな.オリジナルを殺すことでオリジナルになりたい,オリジナルは自分で作られたとは思っていないけれど.

 

本物になりたいミュウツーたち,作られたものは,本物を殺さないと本物になれないと思っている.

 

みんな,本物なのに,偽物だって思ってしまう,作られてしまったから

 

オリジナルは自然に生まれ,コピーは人工に作られた.

 

でも生きている以上,みんなオリジナルだ.

ミュウツーたちはそれを頭のどこかでわかっていながらも,”作られた”ということが劣等感として残ってしまい,どうにか自分の存在を認めさせようとする.

「我々コピーはオリジナルを超えるように作られている」

「本物は本物だ。技を使わず力で戦えば、本物はコピーに負けない。」

ミュウツーとミュウの会話だが,自分をコピーだと認識しているミュウツーの悲しさがあまりに辛い.そして相手を思いやることを全くしないミュウ.

 

ミュウツーはミュウに自分の存在を認めてほしかったんだろう.私も生きている,もとはあなただが今は別の存在としているんだよ,と.

 

オリジナルとコピーで戦うとき,コピーのピカチュウがサトシのピカチュウにビンタするシーンで,サトシのピカチュウは一回もやり返さず叩かれ続ける.コピーピカチュウは,叩きながら泣いてしまう所が苦しい.

本当はこんなことは無意味であるとわかっているのに,倒さないと自分がなくなってしまうという使命感が,あの行動を引き起こさせていたんではないかなと思った.

 

最期はミュウツーのエゴだったな.

 

記憶を消してあげたのは,優しさだ.

けれど,消したのはオリジナルだけで,コピーの記憶は残ったままだろう.

それは戒めなのか.

ミュウツーたちコピーと一緒に,ミュウはなんでついていったんだろう.

ただの興味本位なのか,それとも.

 

今この世界にオリジナルはどれだけいるんだろうか.

みんな誰かのコピーじゃないだろうか.

コピーだと知りながら,僕らはオリジナルのように振る舞っているのかな.

僕の言葉は誰かの受け売りで,バカにしてくる君は,きっと誰かに言われたんだろう.

僕は僕になりたい,僕でいたい.

 

 

 

ふるさとを持たない君の海になりたい

俵万智さんの俳句だ.

 

僕はこの言葉をつい最近知った.死ぬ前に知ってよかったと思っている.

 

「ふるさと」を持たない君

僕の知っているふるさとにたとえ海がなかったとしても

この言葉の中では,僕のふるさとには海があって

出会った君は知らないんだ,あの青さや美しさを

 

太陽の日差しを優しく照り返して

まるで宝石を散りばめたかのような青い海に

少し肌寒い風が吹いて

ふと潮の匂いに懐かしさを感じる.

 

近くでは地元の漁師が釣りをしていて,

「おーい,今日も生きのいい魚が釣れたぞ,見ていくか」と

僕に話しかけてくる.

 

日常の大部分にその海はあって,

海と共に過ごした.

 

僕は時間とともにその海にお別れをし,

鉄が連なる都会で君と出会った.

 

君は知らない,あの青さを.

だから,僕がなりたいんだ,君の青に.

それが,たとえ本物ではなくとも良いんだ.

君が僕越しに海を見てくれればそれで良いんだ.

 

僕を通して見た景色が,

どうか美しい青であってほしいと心から願う.

 

あんなに美しいんだ.君にも知ってほしい.

僕はあの街で育ったんだ.

秋には金木犀の香りがして,時間の流れがゆっくりなんだ.

こんな鉄に囲まれた世界が全てじゃないんだよ.

 

そうだ,今度電車に乗って遠くに行こうよ.

パスワードの人という音楽

実は,ツイッターで告知されるちょっと前に,ぐみμさんから連絡いただいた.

正直言葉が出ない.

パスワードの人には,僕自身特別な想い出があるので,少し振り返りたい.

 

 

 

パスワードの人との出会いは,渋谷aubeというライブハウスでだった.

その頃はまだ3ピースで,よくグレートヒェンとか国王に告ぐとかを演奏していたし,バンドとしての進むべき方向もまだ定まっていなかったな.

パスワードの人は,その対バンの中で群を抜いて異常だった.それは音楽ではなく表現だった.

僕は圧倒されたし,とても嫉妬した.僕の中の少ないと思っていた固定観念が完全に破壊された.

 

 

ギターがいない.

 

 

ドラムのよてろうさん,キーボードのつっぺさん,そして中央で舞うぐみμさん,くまのぬいぐるみ(熊山くま子).

なんだこれは.

今はその頃何の曲をやっていたのか全く思い出せないけれど,印象深かったことだけはまだきっちり覚えている. 

 

 その日は軽く挨拶をするだけだったけれど,とても印象に残っていた.

 

密かに追っていたので,デザフェスに出演したというツイートを見た時素直に「すごいなー,他のバンドでデザフェスって見ないから,完全にそっちの方向へ行くんだな」と感じたのを覚えている.

 

 

大塚HeartsNextで本当に久しぶりに対バンした時に,「【再考】という企画には,絶対にパスワードの人が必要だ」と思って,何も考えずにぐみμさんに出演依頼をした.

快く受けてくれて本当に嬉しかった.

ぐみμさんとは,感性のところで近いものを感じていた.

バンドとして,近い道を歩いていると思っている.だからこそ一緒に頑張りたかった.

 

きっと見えていた景色はとても近い.

この世界をパスワードの人はあの表現で,僕らはこの表現で表現するしかなかった.

とても険しい道程だ.当たり前だ.

いつだって普通じゃないことは,端に追いやられてしまう.

それでもすり減りながらも,表現するしかなかったんだ.

 

そんなパスワードの人が休止する.

一度休眠するだけだ,大丈夫.そう思っているけれど,悲しさは止まらないね.

 

また,僕を守ってくれていた音楽が止まる.

 

 

 

 

マルメロのときもそうだけど,解散ライブってなると,みんな来るんでしょ,そうだよね,しってる.

 

それもいいと思う,悪いことじゃない,むしろ良いことだ.

でもね,それでもバンドが息をしていた時に,関わっていたい,僕は.

 

突然だった.

企画に2回も出てくれて,精算のときに もう嫌というほど「最高だった,最高だった」と伝えても,それでもバンドは休止してしまうんだ.

 

勝手ながらも,僕らはパスワードの人という音楽を背負っていくつもりでいる.

絶対になくならないし,僕の中にある.

それで,いつかまた「音楽に戻ってきたい」って思ってもらえるよう,この道を照らし続けていくつもりでいる.

 

「三つ編みの言葉を結っていく」

三つ編みのように,僕らの人生はねじれ交わっていった.

言葉を丁寧に丁寧に,それがたとえ伝わらないと僕らは知っていたとしても,結っていくしか無いのだ.

 

 

ペンギン・ハイウェイに関して

僕は森見登美彦の熱狂的なファンではない.

だから,深い考察とか知らないし,「こういったバックボーンがあって」とかも知らない.

 

ペンギン・ハイウェイの映画を早く観る機会を得たから,小説を読んでから観ようと思った.

なにかを批評するには,まず勉強が必要であるし,何も知らないのに批評することは大変愚かなことであると僕は考える.

penguin-highway.com

 

ペンギン・ハイウェイ (角川文庫)

ペンギン・ハイウェイ (角川文庫)

 

 

 

 

 

 この小説は,感覚的で抽象的な物語ではなくて,かなり練られた物語だ.というのも,最後のお姉さんが消えてしまうところから,その後のアオヤマ君のお姉さんへの考え方の変化は,以下の3つの点が伏線になっている.

 

・お父さんが言っていた,世界の果ての話=<海>

・ウチダ君が研究していた死ぬということ=『消えたお姉さんの話』

・お父さんがお姉さんに話した解決しないほうがいい問題=夢の話

 

そして,映画ではこの3点が全てカット(というより取り扱われていなかった).

一番重要な物語の世界観や考え方の部分がごっそり抜けているのである.

なんてこった,と僕は思っていた.ぶっちゃけ残念な映画だと思った.足りなすぎる.

 

なので,結構な人(例えばプールと銃口のジン君や,おいしくるメロンパンのナカシマさんとか目についた)が高評価していたためちょっと怖いけれど,僕なりになぜあまり良くないのかを述べたいと思う.

 

一点ずつ見ていきたい.

 

●お父さんが言っていた,世界の果ての話

これは,喫茶店でのお父さんとアオヤマ君との会話で,

「世界の果ては遠くない」

「世界の果ては折りたたまれていて,世界の内側にもぐりこんでいる」

 という所.

ここを映画では,がま口の財布で説明していた(たしか).内側が世界で,外側が端だとしたら,ひっくり返すと世界が外になって,果てが中に来る.だから世界の果ては内側に潜り込んでいる,という理論だ.

小説では,端は折りたたまれている,と表現している.ここで思い出されるのは,プロミネンスによって分離した<海>がスズキ君に当たることで時間が巻き戻るという現象だ,

ネタバラシになってしまうけれど,<海>は地球にできてしまった「穴」であり時間である.物語内でブラックホールの話があったのも,この<海>という存在を説明するための引用のはずである.小さな<海>によって,時間が折りたたまれてしまい,スズキ君は前の時間に戻ってしまったのだ.ブラックホールも,重力によって星が潰れ,時間や光が沢山折りたたまれ押しつぶされ耐えきれなくなることで発生するとされている.

映画中にはこの表現が無かった.映画しか見ていない人は,<海>を何だと思ったのか気になる.ただの不思議現象ではないのだ(不思議現象ではあるが,自然災害とかそういった類のものではないという意).

 

●ウチダ君が研究していた死ぬということ

まず映画内ではウチダ君はアオヤマ君の仲良し友達という位置でしか無かったが,小説内ではアオヤマ君がお姉さんが消えてしまった世界で絶望しないで先に進むための重要な視点を得るための大切な役割を担っている(と思った).

第一に,ウチダ君も研究メンバーなのに,彼は映画内では何をしていたのか.何もしていない,ドジっ子キャラでしかなかった.

彼もアオヤマ君とハマモトさんと同じく手帳を持ち,この世界で重要な考え方である「死」について一つの結論を出す.

それがこの部分.

 

【「ほかの人が死ぬということと,ぼくが死ぬということは,ぜんぜんちがう.それはもうぜったいにちがうんだ.ほかの人が死ぬとき,ぼくはまだ生きていて,死ぬということを外から観ている.でもぼくが死ぬときはそうじゃない.ぼくが死んだあとの世界はもう世界じゃない.世界はそこで終わる.」

「でもほかの人にとって世界はまだあるよね?」

「それはほかの人はぼくが死んだことを外から見てるから.ぼくとしては見てないから」

 

「たとえばぼくがここで交通事故にあうとする」

「それは大事故?」

「大事故なんだ.ぼくは死ぬかもしれないし,死なないかもしれない.それで,こっちの線はぼくが死んだ世界,こっちの線はぼくが生きている世界」

「ぼくは生きているうちにいろんな事件に出会って,死ぬかもしれないし,死なないかもしれない.どんなときでも,どちらかだよね?そのたびに世界はこうやって枝分かれする.それで,ぼくは,自分というものは,必ず,こっちのぼくが生きている世界にいると思うんだよ」 

 

「つまり,たとえぼくがウチダ君が死ぬのを見たとしても,それが本当にウチダ君本人にとって死ぬということなのか,ぼくにはわからないということだね?それは証明できない」】(p288~p299より)

 

まず,映画でこの描写がないと,この物語が何が言いたいのか,何が表されているのかさっぱりわからないと思う.「少年が恋したお姉さんは,少年の記憶に深く刻まれながら消えていった...少年は可哀想だけど健気で感動した」くらいしか無いと思う.

 

この物語の死生観は上記のとおりであり,お姉さんはアオヤマ君の世界から消えた=死んだと解釈すべきである.ただ,消えた瞬間にアオヤマ君の世界では消えてしまったけれどお姉さんは消えていない世界にいるのである.つまりパラレルワールドが生まれる,という考え方である.このパラレルワールドを「世界の果て」と表現している.

つまり,最後お姉さんは<海>=穴を塞ぐと消えてしまう=異なる世界に帰ってしまったのだ.アオヤマ君が<海>の中でお姉さんに「<海>を少しだけ残すことはできますか」と尋ねている.<海>は世界の果ての入り口でもあったのだ.

だから,最後お姉さんが消えてしまったあと,アオヤマ君は絶望しなかった.

自分はお姉さんが消えてしまった世界にいるけれど,お姉さんはお姉さんがいる世界にいる.だから「世界の果てに通じている道はペンギン・ハイウェイである.その道をたどっていけば,もう一度お姉さんに会うことができると信じるものだ.これは仮設ではない.個人的な信念である.」と述べた.

映画の最後にアオヤマ君が述べたこの文章,すっと腑に落ちなかっと思うけれど,それはこういう意味だ(と僕は思う).背景がわかればすっと入ってくるのではないだろうか.

 

●お父さんがお姉さんに話した解決しないほうがいい問題

このシーンも映画ではカットされていた.お父さんがフランスに行く際のバス停で,アオヤマ君とお姉さんが見送りするシーン(お姉さんはいないことになっていた).お姉さんに「世の中には解決しないほうがいい問題がある」と話している.それをアオヤマ君も聞いており,その後に夢の描写に入っていく.

映画では妹がお母さんが死ぬということを考え泣いてしまったあとになぜか熱を出して夢の話に入っていく.ただ,ここはお姉さんのことをずっと考えていたアオヤマ君はすでに答えがわかっている.だから夢の世界でお姉さんはアオヤマ君に「ごめんね」と謝るし,アオヤマ君は泣いてしまうのだ.

そのつながりが映画には無かった.

 

以上3点を大雑把にまとめてみたけれど,やっぱり無かったと思うし重要な部分だと改めて思う.

じゃあなんで映画見た人が良い,美しいって言うのかなと考えてみる.

それは人は,「生命の消失」という点に置いて美しさを感じやすい生き物であるところにあると思う.最後にお姉さんが消えてしまいアオヤマ君が寂しさから立ち直り「いつかお姉さんに会いに行こう」という話にすることで,クライマックスをさも美しかったかのように作り上げ,小説の大事な部分がおろそかになっていることが気づけずにいるのだ.

 

原作ありの映画は,監督の解釈(や好み)がそのまま出てくる,と改めて思った.今回のペンギン・ハイウェイに関しては,監督の趣味と合う人は「良い映画」と思うのではないだろうか.

少なくとも僕は,あの一見抽象的な物語をそのまま抽象的に終わらせてしまったことをとても残念に思っている.