ポケモンを通して夢を見ていた
先日ポケモンのMVが発表された.楽曲はBUMP OF CHICKENが提供しており,曲名は「Acacia」だ.
【Official】Pokémon Special Music Video 「GOTCHA!」 | BUMP OF CHICKEN - Acacia
※この記事は,バンプのファンというよりもポケモンを通して成長してきた1人の人間としての感想です.
このMVは,初代から最新作までのポケモンを,男の子と女の子目線で総ざらいしていき,先につながっていくというコンセプトのものだ.
父がゲーム好きということもあり,僕の生活には小さな時からゲームが存在していて,ポケモンもその一つだった.小さいながらにキャラクターたちに夢中で,架空のポケモンを自由帳に書いたりしたり,「いつかポケモンがいる世界になる」と信じていた.
多くの人がポケモンを通ってきたと思う.そこにはありとあらゆる想い出があって,泣いたり笑ったりしていたはずだ.新しいポケモンのタイトルが出れば,友達らとその話題でもちきりになったのを覚えている.それはなにかわからないキラキラしたもので溢れていた.
このMVの男の子と女の子は,ポケモンの世界の中で旅をしていて,多くのことを経験し,それは昔抱いていた自分の想像する未来「こういう世界がいいな.僕もこういうことを経験したい」と合致する.そして,現実と対面する.
ポケモンは,多くの大人によって作られている.そして,それを子供たちが接することで夢を与える.大人たちは,決して経験できないいわば「夢の舞台」を創造する.僕は夢を見ていた.ただ,いつまで立っても僕の生活にはポケモンはいなかった.夢だった.
作品を作るということは,ある種「非現実を作り出す」ことだと思う.小さな頃はそれを非現実だとは全く思わず,「未来のあるべき姿」だと錯覚し,それを信じていた.今僕は大人になり,それは夢だとわかってしまった.現実は重く苦しい.
大人たちは,そんな苦しい現実から逃避するように夢を作り出す.それはとても明るく楽しい夢で,夢の中ではなんだってできるのだった.その夢は子どもたちに夢を見させる.子どもたちは夢の中で生きていた.
グリーンやブルー,レッドらは,このMVの中で生きていて,僕の記憶の中でも生きていた.変わったのは僕だけだ.時間が経ってしまった.でも確かにこの記憶の中にはあった.
ポケモンを通して夢を見ていた.それが夢だと知っていて,なお見ないようにしていた.「いつかは...」という期待を心のどこかで願ってしまったんだ.「Acacia」を聴いていた僕の隣にピカチュウはいなくて,代わりに車が走っていた.昼食時間と名付けられた時間内にコンビニで買ったサンドイッチを食べている.自由とは正反対だ.生きるために仕事をして,対価として金をもらっていた.その金で生きていた.僕ができることは,苦しい現実から逃避するような夢(しかもそれはとても幸せな夢)を作り出していくことなんだと思った.
それでもまだ旅をしたいと願っている.
HSP特集が多くされるようになったことによる懸念
最近,著名人が「自分もHSPだ」というふうに明言されだしている.2020.4.1に世界一受けたい授業で「5人に1人?「繊細」すぎて疲れてしまうHSPって何?」という表題の授業がされていた.その時くらいから徐々にメディアに「繊細さん」や「HSP(Highly Sensitive Person)※なお子供はHSC(Highly Sensitive Child)」という言葉が出だし,文書では「繊細さん」という本が出て,現在楽天ブックスの総合ランキングで一位になるなどしている.
HSPという言葉だけを見ると,ADHD等の名称に似ているせいか病気と勘違いされるかと思うが,実際は病気ではなく,「気質/性質」である.つまり性格の類ということだ.
性格のため,診断書が出されるわけでもなく,本人が自認するかどうかが判断材料ということになる.
こんな記事も書いてあるので,よければ読んでみてください.
さて,HSPかどうかの判断基準として,以下のサイトにセルフチェックリストがあるので,ぜひ皆さんやってみてほしい.
全部で27問ある.このサイトが一番HSPについての考察等がされており信頼できると僕は思っている.というのも,他の精神科等のサイトの引用に一番されているのがこの上のサイトだからだ.論文等の引用もあり信用度は高い.他にHSSの記事も書かれており,自分はそこに該当すると思っている(HSPの部分は当てはまる数はそこまでではなかった).
上には27問と書いたが,実際にテレビで特集されていたチェックリストは10問だった.おそらく番組の尺の都合で当てはまりやすそうな問題をピックアップして出したと考えられる.結果多くの著名人を含む日本人が「私もHSPだったんだ!?」となってしまったのではないだろうか.
HSP目安チェックリスト
●大きな音や雑然とした光景のような強い刺激が不快で、煩わしいと感じる。
●忙しい日々が続くと、暗い部屋やベッドなどのプライバシーが得られる場所に逃げ込みたくなる。
●他人の気分に左右される。
●短時間でしなければならないことが多いと、気が動転してしまう。
●生活や環境に変化があると混乱する。
●子どものころ、親や教師から「内気だ」や「敏感だ」と、見られていた。
●美術や音楽、芸術に深く感動する。
●繊細な香りや味、音や音楽が好き。
●一度にたくさんのことを頼まれるとイライラする。
●ビクッとしやすい。
この10問だけを見ると,かなり多くの人が当てはまるのではないだろうか.HSPという人たちがいる,ということが多くの人に広まることはとても良いことだと思う.このことを認識されていないためにとても苦しい思いをしている人たちがいる.それが改善されるのであればとても良い.
ただ,このチェックリストからは,より多くの人が当てはまりやすいように意訳して,なおかつピックアップして出している感が否めない.
僕が一番恐れているのは,多くの人が当てはまった結果,「それを我慢して生活できるレベルの人」がHSPの人を「自分も我慢して生活しているのに,君は我慢して生活できないなんて甘えてるね」と考えることである.「自分はできているのにその人はできない.だからその人はだめな人間だ(劣っている)」という考え方はとても恐ろしい.昨今日本でも考え方はアップデートされだしており,「その人個人を認めよう」という多様性の見方が強まってきているとは思う.ただ,それとは別に「自分はできているのに(我慢しているのに)...」といった考えは,自分以外の人を遮断する考え方でありとても危険だと僕は思っている.
実際ネット記事で,「HSPのチェックしてみたけど,こんなのみんな当てはまるし,誰だって我慢しているでしょ」といった内容を見かけた.
最近HSCの話を見たが,彼らは我慢できるとかそういうレベルではないのだ.ふさぎ込んでしまったり,でも話せなくて発散できなかったりするのだ.また,例えば運動会では集団で大きな音を立てて動くことができず,1人で佇んでしまったりする.そういう人たちのレベルを認識させないで,上辺だけを拾い上げるような広がり方をすると,誤解を生じかねない.
テレビ業界では視聴率を撮るために偏向報道していると指摘されていたりと,やはり疑いの目をかけてしまう.話題になっているから,という理由で内容をピックアップし,実際に苦しんでいる人たちとは離れた場所で間違った解釈をされてしまったとしたら,最悪の自体になりかねない.
誰でも我慢していることはある.我慢しながらうまく生活しているのだ.それはわかっている.ただ,それが我慢できないレベルに過敏に反応してしまう人たちがHSPなのだ.そこまでの理解を広めないと,新たないじめや差別に繋がりそうでとても怖い.
千と千尋の神隠しを別の視点から捉え直す
今,「一生に一度は、映画館でジブリを。」という企画で,各映画館で「風の谷のナウシカ」含む4作品を再上映している.
僕は当然4作品全部見るつもりでいて,今日千と千尋の神隠しを改めて観た.
もう何十回も観ている映画だが,今日一つ疑問を持った.
いろんなまとめ記事では,「千尋の成長の物語」と書かれているが,ハク(ニギハヤミコハクヌシ)を救うための物語として見ることもできるのではないだろうか,ということ.
確かに,あの世界に迷い込んだ千尋は,最初のときと最後のときで大きく成長している.しかし,それに付随するサブストーリーがかなり濃いと思ったのだ.
なので,千尋の目線ではなく,ハクの目線から千と千尋の神隠しを捉え直してみたい.
物語中盤から,ハクは千尋と同じようにあの世界に迷い込み,「もう戻るところがない.魔法使いになりたい」と湯婆婆に近づき,魔女の契約を交わした.結果自身の名前を忘れ命を削られながら奴隷のように生きていた.
ハクは「ニギハヤミコハクヌシ」という,昔千尋が住んでいた河の神だ.都市開発のせいで河はなくなったという話がされていた.つまり戻るところが無いのは,河を都市開発のせいで潰されたからだ.
ここで宮崎駿のことを考えると,確かに幼女好きで有名だが,それと同じくらい自然を愛する人物である(と僕は思っている).であるとすると,高度成長に伴い失われていく自然に対して危機感や虚無感を抱えていることは間違いない.
もののけ姫では,自然(神々)と人類は共存をするためにどうすればよいか,ということを投げかけていた(ざっくり).しかし,結果現在自然は破壊されつくされ,再び自然を取り戻す動きはあるものの,それは以前あった自然とはまた違うものである,という終わり方をしている.
そして,現実では開発が進み自然が無くなっていき,以前は生物と常に共にあった河は減っていき,小さい子供たちはそこに河があったことを知らないで大人になっていく.そんな自然に対しての宮崎駿の思いが込められているように感じた.
当時もののけと同様の河の神であったハクは,居場所を失い,魔法で取り戻そうとしたのではないだろうか.しかし,名前を取られそのまま衰弱して行くしかない今は失き河の神に,どうにか救いを与えたいと宮崎駿が千尋をあの世界に呼び出したと考えることもできる.
銭婆は「一度会ったことは思い出せる.忘れてしまっただけで」というふうに話している.
ハクは坊を連れ戻す代わりに,千尋たちを元の世界に戻すよう湯婆婆に交渉する.
その時
「それでお前はどうするんだい?私に八つ裂きにされてもいいんかい?」
のシーンで,ハクは運命を悟るような表情をしていた.その時は,もう殺されることを覚悟していたと思う.
そして,銭婆のところに迎えに行き
「白龍,あなたのしたことはもう咎めません.その子を無事送り届けなさい(うろ覚え)」と言われ,自分の命に変えても千尋を元の世界に戻そうと決意する.
そして忘れてしまった以前の自分の名前を,千尋と接触することで取り戻す.本当の自分の名前を取り戻した時,真に湯婆婆の呪縛から解き放たれ,八つ裂きにされる運命を逃れる道ができたのではないだろうか.
一見すると,千尋を元の世界に戻すための使者のような立ち位置に見えるが,実は使者は千尋の方だったというわけだ.
河はなくなってしまった.しかし,ある人はそこに河があったことを覚えている.
「名前は記憶」ということ.
湯婆婆に名前を取られ,本当の名前を忘れてしまうと元の世界に戻れなくなる,というのは比喩で,本当は忘れ去られて消えてしまう者たちを,あそこに留めることで生き続けさせるということなのではないだろうか.
名前を失うということは,人から忘れ去られていくということだ.ハクのことを忘れてしまっていた千尋は,あの街に行くことで思い出し,ハクも生きることができた.神は忘れされた時にその存在が消える,というのはよく言われることだ.それは神だけじゃなくて人もそうだ.
「どうか失われていく自然を思い出してほしい.そこには君が小さな頃よく観ていた神様がいたことを.」
という宮崎駿の願いが込められているような気がしてならない.
ADHD(注意欠陥)かとおもっていたけれど,HSS型HSPかもしれない
ねねちゃんがHSPとわかり,そこから自分でも調べていた.
HSPとは「Highly Sensitive Person」の頭文字で,「(生まれつき)非常に感受性が強く,敏感な気質を持った人たち」のこと.最近だと「繊細さん」という形で,本やネット記事などで話に上がってきているので,聞いたことがある人もいるかもしれない.
下に自己診断テストがあるのでやってみてください.
僕も考えすぎるところがあるので,一応やってみたのですが,一部当てはまるけれど,一部当てはまらず,当時は「まあやっぱり違うか」といった感じだった.
もともと,僕はケアレスミスが多く,また時間を守りにくかったりスケジュール管理が下手で悩んでいて,ADHDの注意欠陥に当てはまると思っていた.
ただ,ポイントによっては当てはまらないところも多々あり,「うーん,違うかもしれない」というふうに行ったり来たりしていた.
(今思ったのだが,僕は集中することはできるのだ.ちょっとした雑音の中のほうが集中しやすいというアドバイスがあったりするが,例えば隣でテレビの話し声とかが聞こえてくると,文章を書いている時にそちらにも意識がいってしまい(それは興味のあるなしに関わらず)頭の中がまとまらなくなる.あまりにうるさいと意識の向ける先が多すぎて逆に向けられなくなり集中できる,といった感じみたいだ.ADHDはそもそも集中ができないらしい)
(でもこれってみんなそうなんじゃないの?)
HSPは以下の4つの特性があるらしい.
HSPは,DOESという4つの特性があると言われている.
- Depth of proessing 考え方が複雑で,深く考えてから行動する
- Over stimulation 刺激に敏感で疲れやすい
- Empathy and emotional responsiveness 人の気持ちに振り回されやすく共感しやすい
- Sensitivity subtleties あらゆる感覚がするどい
例えば上のDについては,考え方は複雑だし深く考えるが,僕の場合は直感でぱっと行動することも多く,当てはまらないと思っていた.
また,Eについては,共感(相手がどういうことを考えているか)は察知しやすいが,それに振り回されることはない.自分が嫌というときはきちんと意思表示するからだ.
参考にした記事によれば,一つでも当てはまらなければHSPではないらしい.なので僕はHSPではないと思っていた.自分の意思表示はものすごくするし,間違っているものは間違っていると必ずいうし,行動的だからだ.
ある時,ねねちゃんから「私はこういう人間だと思うから理解してくれると嬉しい」という意味で,参考に送られていたHSPの記事で,僕の目にひっかかることがあった.
これが「HSS型HSP」である.
HSSとは,High Sensation Seekingの頭文字を取っており,刺激追求型と訳される.
自己診断テストがあるので,同じく興味のある方はやってみてください.
僕は,このテストで18個該当した.
僕は先のHSP診断の項目の中で,いわゆる刺激や変化に対してマイナスの傾向が出るものはチェックがつかず,それ以外の項目はチェックが付いた.
矛盾しているようにも思えるので,更に調べてみた.
HSS型HSPの傾向として,人間の脳内には,「行動制御システム」(ブレーキ)と「行動活性システム」(アクセル)が装備されています.HSPは「行動制御システム」(ブレーキ)が人に比べて活発なのが特徴ですが,HSS型HSPは,それに加えて「行動活性システム」(アクセル)も非常に活発です.
このことを捉えて,HSS型HSPは,ブレーキとアクセルの両踏みと比喩サれることもあります.
猛スピードで走っている所に急ブレーキを踏むため,タイヤが摩耗しやすい(疲弊しやすい)だけでなく,事故を起こしやすく(トラブルが多く)なりがちです.
らしい.HSPのうちの更にHSS型ということで,下の表のようにものすごく割合が低い.
僕はものすごく飽きっぽく,音楽に関して言えば1番と2番があるだけで結構げんなりすることがある.また,複数のタスクがある時に目移りしてどんどん色んな仕事に手を付ける.興味のあることはとことんやりたくて飛び込む.刺激的なものがとても好きである.
中学生のころは生徒副会長,会長,応援団長,合唱コンクールの指揮者,リーダーなど,他の人が経験しないものに積極的に携わってきた.どれもこれも刺激があるからである.今も社会人になって新しい仕事(新規事業等)が入ってくるとアドレナリンがでてものすごく集中できる.
この動画もかなり当てはまった.
さらに詳しく書いている記事もあった.
Introversion, Extroversion and the Highly Sensitive Person
HSEはよく、無意識のうちに現状に異議を唱える。自分が情熱を感じていることについては、つい発言してしまうのです。そしてそれによって自分たちへの注目を集めてしまうことになります。もちろんそれは私たちにとって心地よいことでではないので、身を引いてしまうことになる。そんな時私たちは内向的なように見えるかもしれません。ただそれでも、自分たちの価値観が脅かされる時には、私たちは情熱的になり、積極的に発言します。そして自分たちの見解を理解してもらうためには、刺激過多や人々の注目にも耐えるでしょう。不正なものへ立ち向かう時も同じです。
確かに意義を唱えがちな気がする.というよりか,自分の納得行かない物事や矛盾している道理についてはしっかり考えて理解できなければ指摘する.
HSE/ HSSにとって、刺激が少なすぎることは、刺激が多すぎることと同じで不安を生じさせます。ゆえに、私たちは“刺激の最適レベル”を見つけることが難しい。でもそれを理解し、体験し、維持することができれば、私たちは満足感をおぼえ、エネルギーを充電し、そして成長していくことができます。
HSPと言っても,内向型HSPと外向型HSPという分類があり,さらに外向型HSPの中にはHSSの人が多いらしい.
僕は,中学生の頃のサッカークラブの幼馴染がいるが,彼らはHSS型非HSPという分類に該当するだろう人たちで,ものすごく活発的で明るい.だけど,ずっと僕と彼らの間では何かしら違いがあるなとは思っていた.
また,大人しめの人とも気が合い,例えばねねちゃんのようなHSPの人ともよく話ができるし,安心してもらえる(と思っている).
多分僕の中でHSSの気質もHSPの気質もあるから,両者とも打ち解けることができるんだと腑に落ちた.
最近はよく自分のことについて考えるようになっているので,(あ,今ネガティブなスイッチが入ったな)とかがわかるようになってきているけれど,まだまだ制御はできていない.
というか,むしろHSPの気質があるなんて思いもよらなかった.ねねちゃんほど泣いたりして思い悩むことも今までなかったし生きづらさを感じてはいなかったからだ.
だからこそHSPで思い悩んでいる人たちに,「僕も同じ気質がある」というのは少し申し訳無さがあるし,本当にそうなのか今この記事を書いている間も疑問に思っている.
ただ,当てはまる箇所がものすごく多く,他の人に対して「どうして気づかないんだ」「なぜこれをしたらこういうことを思うと考えられないんだ」ということをずっと思っていたし,ツイートもよくしていたと思う.人間関係にも思い悩んでいたけれど,どれも自分の人間性によるものだと納得して,どうにかやりすごしてきたのは事実だ.そういった点で共感性は間違いなくあるし,相手が何を望んでいるのかはすぐにわかる.少しの表情の変化で相手がどういう気持をしていたかとかも簡単に気づくことができ,それに対して一喜一憂していた.だけどそれも「気にしなければ良い」とどうにか納得して毎日過ごしていた.社会人になってからは余計そうだった.今もそう.
まだ僕自身これかどうかは納得していないけれど,少なくとも可能性はあるとは思い出している.
同じような人がこの世界ではかなり少ないけれどいるということがわかったので,もしかするとこの文章をきっかけに自分の立場や性質を理解し生きやすくなるかもしれない.
もし同じような人がいればコメントいただけると嬉しいです.
他人と比べることをやめることができた
創作をしていると,同業の他の人の活躍に目が止まり,知らない間に対抗心を燃やしたり,勝手に傷ついたりすることがある.嫉妬は醜い感情だと知っていながらも嫉妬してしまい,特に自分の創作物に対して「いいね」とか「リツイート」とかをしてくれる人が他の人に対しても同じようにしていると負けたような感覚になる(褒めるのは誰にも与えられた権利).
この手の感覚に割と長めの間悩まされてきた.今はTwitterでいいねやリツイートによって,全然知らない同世代の活躍とかも,どんどん視界に入ってくる.僕の場合は音楽をやっているので,対バンであったり仲の良いバンドの活躍が嫌でも入ってくるので,知らない間に精神がやつれていて,でもそれは周りには見せないようにしなきゃならなく(自分で原因がわからないときもある)勝手に病んだりしていた.
僕のようなインディーズバンドは,ライブ活動をするためにチケットノルマをクリアするのに精一杯で,大体はクリアがならず出費がある.月に5本とかライブを行うと,活動費はどんどん減っていく.ただ他のバンドに負けたくないから,活動の質は落とさず,いやむしろより活動的にならなくてはならず,音源制作であったり,MV制作であったり,良いアー写を撮ったりしてメディア活動をするようになっていた.
「この層の人たちが好きそうな音楽を作ったほうが良いかも」とか「これは売れ線でメロディが一般受けしそう」とかいうことを,僕でさえも考えるようになっていた.みんなが歌いやすいような曲のほうがいいかもとか,サビはキャッチーに,とか.
僕の将来的な目標は,音楽活動は活動で得たお金だけで行いたいというものだ.
ただ現状それは厳しかった.
新型コロナによって,活動はめっきり減って,そういう情報もものすごく減っていった.資金も減ることが亡くなったので自分の活動や欲しい物に費やすことが徐々にできるようになってきた.
今は周りの活動を見なくなった結果,自分の音楽を見つめ治す時間になっている.
なんで音楽作るようになったんだっけ?
なぜ創作を始めたのか.それはできた作品が自分の好きな作品になっているからじゃないだろうか.僕はそうだ.
自分の作った音楽がものすごく好きです.
数年前の音楽の作曲家の人がトリビュートで学生の前でインタビューに答える,という番組(題名は忘れた)で,Mr.Childrenの桜井さんが「自分の作った曲は自分では殆ど聞かない」と答えていて,それがプロなのかーと思っていたが,それでも僕は自分の作った音楽を愛しているしとても好き.とても聞くし,聞くたびに「良い曲だなー」と思っている.
どの曲を聞いても聞いたことがない僕だけの音楽になっている.
言葉の選び方であったり,メロディや楽曲構成,全部僕の好きな音楽.これは宝物.
いつのまにか,それを忘れていて,誰かに好かれるための音楽に若干なってしまっていたかもしれない.
もちろん多くの人に僕の音楽が好き,と言ってほしい,たくさん感想がほしいし,考察をしてくれたりすると興奮する.
だが,それ以前に僕が僕の作るものを愛せることが大事だった.僕のための音楽だった.
だから今後ライブ活動ができなくなれば,それはそれで僕は音楽を作り続ける事ができる.
オンラインでMIXからマスターまでしてもらい,プロの楽曲同様の仕上がりにして永遠に自分が一番好きな音楽を聞き続けることができるのだから.
創作に困っている人,嫉妬とかすることが醜いと思いながらも嫉妬してしまい,それに傷ついている人,たくさんいると思います.
僕は,自分がなぜそれを作っているのか,それは楽しいから,ということを思い出すと,他人のことはどうでもよくなってくるので,おすすめです.
他人の評価は蜜の味で,中毒性がある.ただそれを見(聞い)たことによる楽しさや嬉しさは創作本来の楽しさや嬉しさではない.
創作本来の楽しさや嬉しさは,自分の頭の中にあるものを現実世界に生み出すこと,それ以外にない.
僕は早く自分の作った楽曲が完成したのを聞きたい(まだ購入したポップガードが届かず,歌録りができない)
善意で作成したマニュアルの責任について
愚痴かつお悩み相談です.
全然面白くない内容です.
業務上口頭で引き継いできた内容を,あとに引き継ぐために善意でマニュアルを作成した場合,作成者が書き漏らした(人によっては疑問に思わず)そのまま業務を実行してしまい,「マニュアルにこう書いてありましたからそうやりました.疑問にも思わなかったですし,書いてなかったので私は悪くないです」といった場合の責任は,マニュアル作成者にあるのでしょうか.
僕個人は,「あれ?これはおかしいな」をかなり気づく事ができ,もともと口頭で言われていた業務についても自分で解決,もしくは先輩に判断を煽ることができておりました(聞いた所で結局自分の判断になり,自分で処理を行っていましたが).
今後この内容について自分が異動した時用にマニュアル作成をしようとし,業務を行う上で必要十分な内容のマニュアルを作成しました.マニュアルはあくまで必要十分な内容になっているので,イレギュラーな事象についての対応の解決方法は載せていませんでした.
わからないことや疑問に思うことについては,上司や先輩に聞くことが筋であると考えるし,すべてのイレギュラーな事象を列挙するときりがないためです.
(そもそも,僕自身が口頭で説明されていたものをメモで残していたのですが,下に入ってきた後輩に「マニュアルは無いんですか.マニュアルで教えて下さい」と言われたため作成したに至ります.確かに業務においてマニュアルがあればそれを利用するのは至極当たり前のことだと思いますが,歴代の人が(直近を含め)マニュアルを作成していなかった場合,先輩となる僕が作成すべきだったのでしょうか.あまりにも直球で言われたため「作成しなければならない」と責任を感じていました.)
結果,マニュアル外のことが起きた場合に質問をすることもなく,たまたま問題が発覚し確認した所,上記のように言われました.
特に上司からの命令ではなく,後輩からの希望で善意で作成したマニュアルにおいて,そのマニュアルではカバーしきれなかったものがあった場合,その責任もマニュアルを作成した人にあるのでしょうか.僕は公的なマニュアルではないので,最終的には業務をしたものが責任を負う必要があると思っています.ただこれが正しい考えなのかどうか,誰にも相談できていないのでわからないです.
わからないことがあればすぐ聞ける人間関係を構築しておくことが重要であるとは常々思っていますが,入社していきなり「私は有給取りまくるのでよろしくです」と言っていたり,明らかに僕に対しての態度だけ異常に違っていたり,質問を投げかけても非常に高慢な態度で接してきたり散々です.上司に相談済ですが以前改善はされていません.
(一年早く僕が入社しているのですが,同級生でかつ高校も同じ(校舎が違う)であったので,それにより勝手に謎のライバル視をされているような気もしていますが,思い過ぎなのでしょうか.今は何を注意しても突っかかってくるので話すのが怖いです.そして先輩は今いないため一人で抱え込んでいる現状にあります)
今は誰も味方はいないので,自分の業務を時間内に終え,さっさと帰っています.
早く異動したい.
家にいる時くらいは忘れたいのに.
僕らのことは僕らで守るしかない (コロナウイルスに関して
コロナウィルスによって,今の政府の対応がダメダメだと各地の方面から声が上がっている.
今回,娯楽産業であるライブハウス等のところから,要望書の提出がされたところです.各自署名ができますので,下リンクから署名しましょう.
今回は珍しく2テーマに分けて文章を書いていこうと思います.
1つ目は,今回の自粛要請に対する政府に関して,
2つ目は,今回のコロナウィルスに関して.
です.
1今回の自粛要請に対する政府に関して
みんなかなり鬱憤が溜まっていると思います.論理的にも国民が目に見えるレベルで疲弊しています.僕のバンドも自主企画を打つ予定でしたが,延期を余儀なくされました.各ライブハウス等関係者,フリーランスの方々,固定給が出ない人たちは実生活に直接インパクトを与える影響が出ていると思います.本当に苦しい状況です.
一方,僕たちは生活するために,様々な支払いをする必要があります.家賃,光熱費等,食費,etc...
しかし,これを支払うためのお金がないのです.アベノミクスによって,就職率は上がってきているという統計が発表されている中,消費税増税により僕たちの日々の支出は徐々に増えていっています.100円のものが110円になり,10000円のものが11000円になるということです.バンドマンの目線で話せば,10000円のエフェクターとエリクサーの弦を購入できる金額で,エフェクター一台しか購入できず,税金として国に徴収され還元は全くされていない状況ということです(還元がされていないというのは極端な言い方ですが,あくまで非常事態に僕たちに対して直接的な支援がされていないことを指しています.)
さて,今この文章を読んでいる人たちは,おそらくいわゆる「お金持ち」に分類される人たちは少ないと思います.ただ,総務省の発表によれば,国民は「2018年平均の1世帯当たりの貯蓄現在高は、平均値で1752万円」の貯蓄があるらしいのです.
え?こんなお金持ってないって?僕もそうです.日々の生活に収入はすべて支払われ貯蓄も生活を切り詰めないとできない状況です.実際の実態により近い状況を見るためには,中央値でもみる必要があります.
また,SMBCの調査では,20代・30代・40代における預貯金額において,「貯蓄ゼロ」の割合が20代が19%,30代が20%,40代が23%という結果を出しています.
5人に一人以上の人が貯蓄が0だという状況であるのにも関わらず,今回のコロナウィルスによる政府からの支給物としての検討として和牛商品券が挙げられ,麻生財務大臣は「10万円の支給をした場合,貯蓄に回される」旨の回答をしています.
政府の認識と現状に大きな乖離を感じています.
それは皆さんも重々承知のことだと思います.
僕らはお金がない.本当にない.じわじわと行われているから感覚が鈍くなっているけれど,どんどん僕たちは貧乏になっている.普通じゃない.
ただ,現政権は「金はあり,貯蓄に回されるから商品券や旅行券」の配布を検討しています.
今日を生きるためのお金さえままならない状況なのにです.
ここからが言いたいことなのですが,この政治を選んだのは僕たち国民である,ということです.「芸術家は政治のことを話すのはダサい」という頭のおかしい風潮がありますが,芸術家も国民なのです.自分を守る必要があります.今回のような緊急事態に国民により添えない人たちを当選させたのは誰ですか?あなた方一人ひとりに与えられた権利である「選挙への投票」をおろそかにし,自分の頭で考え行動しなかった人は誰ですか?
政府からすれば,「自分たちは民意によって当選している.なので,自分たちのやりたいようにやるし,法人から支援されているから,法人は優先的に守ろう」ということを考えるのは至極当然のことだと思います.
誰かが救ってくれると考えていますよね?誰も救ってはくれません.大きな権力は全員を守るほどの善意にはなりえません.
なので自分たちから動く必要があります.
増税した消費税は社会保障に充てると言っていたにも関わらず,法人税の減税分に充てていて「すみません,次からはきちんと社会保障にあてます」と言っている人をなぜ信用できるのですか?あなたが汗水垂らして,時間を費やしてストレスを抱えながら手に入れたお金ですよ?それを法人税減税分に当てられていたのです.自分たちに還元されていますか?なんのために税金を支払ったのですか?疑問に思わないのですか?
このような事態になってしまっているのは,このような人を選んだ,または他の人を選ばなかった,権利を放棄した僕らにあると考えます.
なので,今後を考えましょう.もう今の状況にグチャグチャ言ってもどうしようもないのです.
なので声を上げましょう.この狂っている世界に小さな声を少しずつ上げて,一人ひとりが立ち上がる必要があります.
なにも難しいことはないです.自分たちを守ってくれる人を選べばよいだけです.今回の件で浮き彫りになっている状況を見て,自分たちを守ってくれる人だと思いますか?
自分たちを全力で守ってくれる人に投票しよう.
文化を守れる人に投票しよう.
自分たちのことは自分たちで決めていこう.
自治ができていない僕らの国をどうにか守っていこう.
2 今回のコロナウイルスに関して
今回のコロナウイルスにより,全国的に自粛要請が出ており家で過ごす人たちが多くなっております.政府の対応がずさんであり,国民は日に日に衰弱していき,「もう大丈夫じゃね!?あんまり死者も出てないみたいだし,亡くなった人も高齢者が多いから,俺ら若者はかかっても死にはしないでしょ!」という声が少しずつ見えてきている.
下記ツイートを御覧いただきたい.
ごめんね、しつこいのわかってるんだけど、インスタで読んだ記事があって、これ読んでから今回の件との向き合い方が変わりました。シェアさせてー!イタリアでどんな風に感染拡大したか、簡易的に日本語に訳してみたからみんな見てみて!間違ってたらごめん! pic.twitter.com/Cev6klGTph
— 柳喬之 takayuki yanagi (@yanagitakayuki) 2020年3月27日
現状,日本の状況は諸外国のコロナウイルスの爆発的増加の一歩手前と一緒なのだ.メディアは海外の状況を綿密に報道することはなく,あくまで国内の状況を机上の空論として専門家と話している.実際にその状況に陥ったことがないので危機感があまり感じられない.それによって国民もそこまでの危機感を感じれずにいる.
辻仁成さんの文章だが,ここにも書いてあるように,やはり日本は諸外国の最悪の状況へ同じ道をたどっていると感じられずにはいられない.
このままだと,本当に人が大量に死ぬ.他人事ではない.
自分の意志とは違うところで人が死ぬ.
僕は,芸術家として,ライブができないことにものすごく,本当にきつい気持ちになっているけれど,公演の延期やキャンセルについては後悔していない.なぜなら,本当に人が死ぬからだ.
やりすぎくらいでいいよ.
足りなくて死ぬよりかはやりすぎて生きようよ.
まだ,僕ら死ねないよ.
本当に死が蔓延しているよ.
油断できないよ.
オリンピックとか本当にありえないよ.
自分の身は自分で守ろう.
今は自宅で待機するんだ.ありがたいことにアマプラだったり,サブスクだったり,今は家でもいろいろなことができる.
僕もできる限りコンテンツを出す.
だから,みんな,死なないで.
絶対に油断はだめ.
生きて会おう.
約束してほしい