時計の秒針音

少しずつコツコツ意味を貯めてく

社会に出ても失敗してよいの?

僕は就職一発目で相当苦労したマンなのだけれども,今日Twitterで目からウロコのツイートを見て驚きを隠せず,ブログに書くことにした.

 

 

「失敗しても大丈夫」という点である.

 

もちろん,僕は最初は失敗しても大丈夫だし,失敗してたくさん学んでいこうという意識で生きてきた.大学でも「何も発表せず,いきなり大きなものに取り込むのではなく,小さな段階で失敗して,そこから少しずつ学ぶことで段々と正解に近づいていけばよい.失敗しないというのは恐ろしい.何事もトライアルアンドエラー.」という考えの場所だったので,間違って当たり前だ,と生きていた.(誤解してほしくないのは,それでもわざと間違おうとは断じてしていない.あくまで,全力で取り込んだ結果間違ってしまったとしても,それは仕方がない.そこから何を学んでどう生かしていくかをよく考えていた.)

 

就職一発目の職場では,職種柄今まで学んできたことはほとんど生かされない場所での仕事だった.なので0から学び直すのだが,そこでの慣習や独自の言葉,ルール等が色々あり,覚えきれなくて抜けがあったりしてしまった.何も知らないままに全力で取り組んではいたのだけれど,結果先輩の鼻についてしまいかなりひどい態度を取られていた.

僕だけではないとは思うけれども,自分の考えていた方法で取り組み間違いだとわかるととても良く理解ができる.「あ,なるほど.これをしたらこうなるからだめなんだな.じゃあこうすれば良いんだ」と自分の中で納得のいく方法が思いつき,そこから派生的に「今はこうやっているけれども,これはこうだから,ここをこうすればさらに効率が良くなるな」と一気にわかるようになるんだ.そういう人結構いると思っている.

大学のときは,プログラミングを学ぶ授業もあったことで,ほんとに秒単位でトライアルアンドエラーをしており,そのたびに軌道修正を行っていた.

これが社会に出てからは禁止されてしまった.社会に出た途端,間違いは絶対に犯してはならず,間違いは悪.間違ったお前が悪い.だから間違いが内容にしっかり考えろ.でもこういうミスがあるとかは自分で気づけ.という地獄のような場所に放り出される.(実際地獄だった)

 

なので,このツイートから「間違ってよいって思っている年上の人っているの?!」と驚いた,ほんとに.

僕は自分が間違ってものすごく怒られて,ひどい対応をみんなからされて,職場で萎縮してしまい,余計に動けなくなり,うまく考えられなくなりまたミスをするという悪循環に陥っていた.なので,自分よりあとに来る人には間違ってもよいということと,僕はたくさん間違ってきてそのたびに間違いを修正する方法も学べたので,間違ったときはさっとミスをフォローしてあげようと思っていた.年上の人は間違うことは絶対ダメと思っているのだと思っていた...

本当に驚いた.

 

間違っていいんだ,この社会.

(人によるのか)

 

(最終的に,萎縮しすぎた僕は,それでもひどい対応をしてきた人と仲良くなることで業務を円滑にできるようになると信じ,挨拶をしたりしていた.本当に褒めてあげたい.結果無理だったが.誰も救ってはくれず,相談しても笑って「そうだよねぇ」程度で終わってしまっていたので,結局僕のきつさというのは共有されない,ということもこの時点でよくわかったが.)

 

こういう人に当たりたかったな.

王様の椅子に座らない

自転車で道を通っているとき,向こうからおじさんが歩いてきた.道幅は狭くおじさんは下を見てスマホをいじっていた.僕は中央から車線横ぎりぎりに寄ったがおじさんはこちらに気づいた様子はあったが,まったく移動しなく,むしろ「お前が移動するのが普通だろ,自転車は人を轢いたら有責になるんだからな」といった調子だった(実際は言われていない).確かに自転車と人がぶつかった場合,どのような状況であったとしても自転車が悪くなる,それは間違いない.だとしても,少しは避ける素振りをしても良いのではないだろうか.そういった話.

 

素振りを見せるということは,かなり重要なコミュニケーションだと感じている.「その権利は当然だ」という態度でいることは,どんな状況であったとしてもあまり良い気持ちのするものではない.もちろん権利はその人個人に存在しており,それは行使されなければならないものであるけれど,ほんの少しだけ気を使い合うだけでもっと円滑に角が立たないように生きられるんじゃないかと思う.

少し前に,赤ちゃんを生んだばかりの女性が「赤ちゃんは泣くことが仕事なんだから,バスや電車で大声で泣いてもそれは当たり前なことであり,母親である私がわざわざ申し訳無さそうにする必要なんてない.」のようなツイートに相当数のいいねがついていたのを覚えている.確かに言っていることはわかる.赤ちゃんは泣くことが仕事で,みんな小さな頃は赤ちゃんでうるさいくらいに泣いていたはずだ.それに対して,「赤ん坊をバスに乗せるな!/電車に乗せるな!」と言ったことを言うのは非道徳的だ.ただ,だからといって「赤ちゃんは泣き叫ぶものだから,私があやしたところでどうにもならないから何もしない.」という考え方はどうだろうかと思う.例えば,一方バス車内に連日の仕事でほとんど寝れておらず,やっと帰宅できるとバスに乗り込んだサラリーマンがいたとして,赤ちゃんの泣き叫ぶ声が耳に刺さり,母親を見るとスマホをいじっている.これに対して「赤ちゃんは泣くものだから仕方ないな」と思えるほど広い心を持てる人は少ないと思う.

 

いや,泣くのは仕方がないけれど,自分も疲れていてすごく落ち込んだ気持ちで,でも人に迷惑をかけないように,椅子に座ったとしても小さく座るし,バックはお腹の前に抱えるし,年配の方がいれば席を譲る.そうやって気を使う素振りを見るだけで,「みんな頑張っているんだな」と我慢できることがあるはずと思う.

 

例えばこの場合だと,お母さんが赤ちゃんを泣き止ませようとする素振りを見せる,という行為がかなり重要だったんじゃないかと感じる.(これは賛否両論ありそうだけれど.)

お母さんは赤ちゃんの泣き叫ぶ声によって誰かに迷惑をかけていると思い泣き止ませようとしたが泣き止まない.それに対して,例えば近くのご老人が「赤ちゃんは泣くのが仕事だからねぇ,元気に泣いてしっかり育つんだよ」とか「お母さんも大変だねぇ,でもここにいる人たちはみんな昔は赤ちゃんだったんだから,あなたの辛さも理解できる.おつかれさま」とかがあれば一気に和やかな雰囲気になると思う.

みんな疲れているし,みんな頑張っている.だからこそ,少しずつ相手の気持ちを思いやって気をつかうことが,生活の質を高める方法なんだと思う.

その一つの方法が「素振りを見せる」だと思うんだけれど,どうだろう?

 

当然の権利として,その椅子に座って生活してしまうと反感を受けやすい.王様の椅子に座ったからといって偉いわけではないのだ.

僕は優しく生きていたいな.

言葉は伝えたいことの一部でしか無い

最近曲がかけなくなっていた.

というか,書きたい言葉が見つからなくなってしまっていた.

ので,無理やりいろいろな所を引き金にして貪欲に引き出していた.

それが,僕の本当の部分から離れた言葉になっていたような気がして,ずっともやもやな感じがしていた.インストの曲のほうが作りやすく,少しギターを引き出すとインスト感高めの曲に逃げがちだった.

最近は僕らの曲を以前より多くの人達に聞いてもらっていて,よく感想を貰えるようになった.そして,僕の周りのバンドマンはポップスに寄っていっていて(それはそれで良いことで全く否定していない.そもそも僕は最初に聞き出したのはポルノグラフティだし,バンプも大好きで,ポップスに関して全く否定的ではないから,それに関しては本当に誤解しないでほしい.誤解が本当に怖い),(ポップスは伝わりやすい言葉を比較的よく使っているような気がしている.どうしたらその人が考えていることを聞き手に聞きやすくするのか,うまく歌えるか,という点がセンスであって,それがその人達の個性であったりもするのだろう.),その人達のリツイートとかで,僕のタイムラインはポップスの影響をもろに受けた言葉たちが目に映るようになった.

言葉がどう伝わるか,どうすれば伝わりやすいか,というところだ.

わかり易い言葉は,とてもキャッチーで耳に残る.そして,そういう言葉は繰り返し聞きたくなるのだ.それは反響という形で跳ね返ってきて,露骨に突き刺さる.

僕も知らず知らずのうちに,その考え方になりつつあった.

 

僕が普段 何を考えているか,僕にさえもよくわかっていなく,その頭の中のもやっとした情景を,もやっとしたままどうにかその一部として表層に出しているのが言葉で,その言葉の羅列に寄って,どうにか頭の中を表現していた.それが僕にとっての詩であった.

それがいつの間にか,伝わることを前提に言葉を組み立て始めていたのだ.「どうすれば伝わるのか」というその点について悩んでいて,気づかない間に,僕は言葉を並べることができなくなっていた.

 

「きみの言い訳は最高の芸術」という最果タヒさんのエッセイがあり,それをふとしたタイミングで読み返した.その中の「わからないくらいがちょうどいい」の中に

小説や新聞の言葉が、物語や情報を伝えるために書かれるのに対し、詩にはそうした目的がない。そして、だからこそ私は、言葉によって切り捨てられてきたものを詩の言葉でならすくいだせると信じている。詩の言葉は、理解されることを必要としていない。人によっては意味不明に見えるだろうけれど、でも、だからこそその人にしか出てこない言葉がそのまま、生き延びている。

 と書いてあった.そうだった,そもそも言葉というのは不確かなもので,全部を伝えることなんてできやしなかったことを思い出した.感情一つ伝えるのも容易ではなく,伝わると考えることも間違っている.だって,その人の中のものと,自分の中のものは何一つ同じものなんて無いのだから.名前が同じ違う持ち物を持っているというだけ.伝わるはずがない.言葉を扱うことが多くなって,自分の言葉は伝わるんだ,と勘違いしてしまっていた.大切なことを思い出した.

 

「意味分かんない」で良かった.その中で,誰か少しの人にとってその言葉が大切な言葉や音楽になってくれればよかった.僕にとってそれが一番大事で,だから外に発信するための音楽をやっているんだった.

誰も僕のことなんて理解できないよ,それでいいんだ.僕も君のことなんてわからない.でもこれは全然冷たい話ではなくて,だからこそわかろうとしたいんだってこと.わからないからこそ寄り添いたいし,近くにいたいし,わからないなりにそばにいたい.近くにいれない人には僕の音楽がそばにいれるようにしたい.

そんなふうに思った.

 

だから僕はまた詩をかけるなあって思った.

そして,君なりの言葉で僕らの音楽を手に入れてほしいな.

 

きみの言い訳は最高の芸術

きみの言い訳は最高の芸術

 

 

 

きみの言い訳は最高の芸術 (河出文庫)

きみの言い訳は最高の芸術 (河出文庫)

 

 

雨のパレード BORDERLESSの「新鮮さ」という言葉に隠された過去の削除について

僕は雨のパレードの音楽を今まで聴いてこなかった.残響レコードに自分から売り込み,瞬く間に人気を勝ち取っていったくらいしか知らなかった.

 

Spotifyユーザになり,雨のパレードの新譜が出たという表示があったので,聴いてみた.

アルバム名は「BORDERLESS」,日本語訳で「境界がない」

境界がないのは,良い意味か悪い意味か.

 

 

open.spotify.com

 

 

 

今までの雨のパレードの概念が僕の中になかったため,「こ,これが雨のパレード...?かつて残響系として存在したバンドがこれ?」と理解が追いつかなかった.

 

1.BORSERLESS

「自分の力なんてこれ以上ありはしないだなんて諦めないで

繰り返す日々の中で弱気な考えに怯えて不安に駆られいつも迷いながらもあなたの足でここまでやってきた」(BORDERLESS」/雨のパレードより引用)

wo-wo-wo-wowo-wow-から始まるこの曲は,どう考えても残響系だったころの面影はない.コカコーラのCMかと思った.もしくはオリンピック.作り出された熱狂.

遠回しに「君の可能性はこんなもんじゃない」と歌っているんだけれど,とても苦しかった.

僕はこの曲を仕事からの帰り道に聴いていたんだけれど,辛かった.

どの位置からこの詩とも呼べないような言葉を発しているんだ.

この歌を聴いて,雨のパレードのファンは熱狂しているのか...
とても悲しくなった.節操ないな.

「We go...」じゃないよ,まったく.

 

2.Summer Time Magic

「wo-wowowo-wowowowo-wo-寄せては返す儚い恋」

「エムエージーアイシー Magic for me」

(Summer Time Magic/雨のパレード より引用)

寄せては返す波を恋の隠喩として用いるなんて昔から多用されている表現じゃないか.

英語の頭文字を歌うなんて...

 

3.Story

「ふたり紡いできたこのStory 僕のせいで君を泣かした夜」

「確かめ合うように 口づけよう Darlin'(ダーリン)」

(Story/雨のパレード より引用)

 

いつからこんなありきたりで何の個性のない音楽になってしまったんだ.

「このStory」って歌うのはカップルを泣かせるための曲を作る音楽家たちだけだぞ.

 

4.Walk on

「色んなことに慣れてしまい何かを失ってる僕の心

憧れたこの街に理想の自分が待っていると思っていた

...

あれから少しぐらい

理想の自分に近づけたのかな」

(Walk on/雨のパレード より引用)

 

今の音楽,自分たちの状況,これこそが理想に近しい状況ってことなのか.

 

曲解説でもないので,このあたりでやめるけれども,一応全部聞きました.

批評というのは,全体を見た上で判断するというのが僕のモットーであるからです.

1部分を見て100を知った気になっている人が多い.僕は死ぬまでそうはなりたくない.

 

 1アルバムを通して,やはり感じたのは絶対的な「世界が味方している感」「自分のしてきたことを全部信じていこうぜみんな」という印象.

 

 

 

「黎明をさまよう浮浪者

地面にへばりつくビル

鉛のように沈黙するゴミ

色めきだった景色の隙間を縫うように

それは君の心を占領していく

それらは時に人を狂わせるほど美しい

人々の抱いている価値観は多様

しかしランダムな分布ではない

国や地域や文化圏ごとに何らかの傾向がある

それは時代が気づきあげた圧倒的な伝統

大衆が作り出す熱狂への無抵抗

そう

至ってまともな感覚だ

その紙のようなペラペラの熱狂の中

君は全身を口にして辛辣な言葉を垂れ流す

その言葉は多くの者の琴線に触れ

また大衆を生み

飲み込み

膨らみ

熱狂していく

揺らぎ巡る君の中のそれ」

(10-9/sense 雨のパレードより引用)

 

今回雨のパレードが作った音楽は,「時代が築き上げた圧倒的な伝統で,大衆が作り出した紙のようなペラペラの熱狂」ではないだろうか.

少なくとも僕はそう思ってしまった.

しかし,今回のアルバムでは,この状況や心理的な感覚が,一番理想に近いと歌っている.

過去の言葉と現在の言葉が矛盾することは人間だから仕方がない.

ただ,ここまで変わってしまうのはどうなんだろうと思う.

自分が一番嫌っていた形に収束してしまったのではないか.

恐ろしいことだ.

記憶は場所や物に宿る

何かを思い出す時,僕らは必死にそれのつかみになるものをを一緒に思い出す.

記憶喪失になってしまった人が,昔訪れた場所を歩いて回る.

まるで思い出を拾い集める作業をしているようである.

 

頭の中には直前にあったことくらいしか残っていなく,思い出すときは決まって以前通っていた道であったり,誰かにもらったものであったりする.

 

思い出は場所や物に宿り,頭の中は少しずつかすれていってしまう.

 

遠い昔誰かに聞いた覚えがある言葉は,とうの昔に忘れてしまった.きっと僕には今数えられる忘れてしまったこと以上に多くのことを忘れてしまっている.残っているのは傷跡で,傷跡に記憶がこびりついてしまっているんだ.

 

遠くに行けば行くほど,僕に関しての記憶は分散し存在する.僕という記録がその土地に記憶される.そうして世界に僕の記録が増えていく.それと対象的に僕という存在から一部が抜き取られる.僕が抱えている「僕」をそこに置いていくイメージ.

 

 

 

例えば,自分が持っている「モノ」は捨てにくいと思う.

 

モノにはたくさんの記憶が巻き付いていて,それは自分の一部をそのモノに与えているからで,自分の一部を捨ててしまうからだと最近は考えている.

自分の手元から離すことで,記憶は帰ってきて,そこで初めて自分の物になる感覚もある気がする.

断捨離をすることで心を軽くする必要があるのかもしれない.

 

自分の近くには,ある一定の量の記憶しか留めておくことができず,それが多くなってしまうと心が形を保てなくなる.だから外に出す必要がある.

それを心の浄化と言うんじゃないだろうか.

 

 

 

 

遠くに行こう.遠くへ.

まだ見たことがない地へ.

そこで記憶を置いておこう.

いつかそこに再び訪れた時に,懐かしい話ができるように.

 

君の心に住み着いた魔物は,すこしお仕置きしてあげよう.

遠くへ,遠くへ置いていこう.

時間が経てば,魔物もしょんぼりしてしまうからね.

 

そして,出会った時だけ挨拶をして,懐かしい話をしよう.

「君がいたことで,今の私があるんだ.だから感謝している」と伝えてあげよう.

そして,また記憶が風化した時に会いに来るよ.

 

 

あの時君にもらったチョコレートを,僕は食べずに捨ててしまった.君の記憶のチョコレートは僕の記憶のチョコレートにもなった.なんてね.

 

文に線を引く

文章に線を引くという行為について,ずっと疑問だった.

線を引く,という行為は,重要な場所という目印をつけるという意味だからだ.

重要ではない場所とは一体どのような文章なんだろうか.

 

作者にとっては,どの文も欠かせない重要なものであり,一つ削れたら意味は途端に破綻してしまう.

だからこそ,安易に「文を抜き取る」という行為はできないと僕は思っている.

 

ただ,重要なところ,心に残ったところに線を引く人がいる.

その本を読み返した時に,「ああこの間の私はここで何かを感じたんだな」と物思いにふけるのかもしれない.ただ,それは本を読むことの本質ではないと思っている.

例えば参考書であれば,自分に必要な場所だけ線を引くことは問題ではないと思う.ただ,題名を与えられた文章において,それをすることはかなり愚かな行為な気がしてならない.

特に詩において,文を「抜き取る」という行為は大きな問題だ.

 

メディアが事実のある一点を抜き出して報道するのと同じだろう.自分の都合の良い言葉を拾い集めるだけ.辞書代わりの詩集や物語,そんな人の音楽が評価されているのがとても皮肉に思う.

 

線を引く行為は,とても危うい.

 

自分の表現の外の言葉を探し求めるのは良いと思う.

ただ,「線を引く」という行為は,単なる辞書代わりであって,それはあなたの言葉ではない.こと詩において,重要ではない部分などないのだ.なぜなら,切り詰めているからだ.

 

詩をなんだと思っているんだろうか.

 

それに騙される人たちもとても残念である.

思考が止まってしまっている.

 

自分の言葉で,伝える.

思考停止は一番心地よくて一番恐ろしい.

 

ただ一部分を抜き取るという行為をもっと考える必要がある.

 

全体で把握できないから線を引くのだ.

それを詩人がしては行けないだろう.大変業務的に思えてならない.

 

だから僕は本に線は引かない.

 

あなたはどうですか.

 

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