ペンギン・ハイウェイに関して
僕は森見登美彦の熱狂的なファンではない.
だから,深い考察とか知らないし,「こういったバックボーンがあって」とかも知らない.
ペンギン・ハイウェイの映画を早く観る機会を得たから,小説を読んでから観ようと思った.
なにかを批評するには,まず勉強が必要であるし,何も知らないのに批評することは大変愚かなことであると僕は考える.
- 作者: 森見登美彦,くまおり純
- 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
- 発売日: 2012/11/22
- メディア: 文庫
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この小説は,感覚的で抽象的な物語ではなくて,かなり練られた物語だ.というのも,最後のお姉さんが消えてしまうところから,その後のアオヤマ君のお姉さんへの考え方の変化は,以下の3つの点が伏線になっている.
・お父さんが言っていた,世界の果ての話=<海>
・ウチダ君が研究していた死ぬということ=『消えたお姉さんの話』
・お父さんがお姉さんに話した解決しないほうがいい問題=夢の話
そして,映画ではこの3点が全てカット(というより取り扱われていなかった).
一番重要な物語の世界観や考え方の部分がごっそり抜けているのである.
なんてこった,と僕は思っていた.ぶっちゃけ残念な映画だと思った.足りなすぎる.
なので,結構な人(例えばプールと銃口のジン君や,おいしくるメロンパンのナカシマさんとか目についた)が高評価していたためちょっと怖いけれど,僕なりになぜあまり良くないのかを述べたいと思う.
一点ずつ見ていきたい.
●お父さんが言っていた,世界の果ての話
これは,喫茶店でのお父さんとアオヤマ君との会話で,
「世界の果ては遠くない」
「世界の果ては折りたたまれていて,世界の内側にもぐりこんでいる」
という所.
ここを映画では,がま口の財布で説明していた(たしか).内側が世界で,外側が端だとしたら,ひっくり返すと世界が外になって,果てが中に来る.だから世界の果ては内側に潜り込んでいる,という理論だ.
小説では,端は折りたたまれている,と表現している.ここで思い出されるのは,プロミネンスによって分離した<海>がスズキ君に当たることで時間が巻き戻るという現象だ,
ネタバラシになってしまうけれど,<海>は地球にできてしまった「穴」であり時間である.物語内でブラックホールの話があったのも,この<海>という存在を説明するための引用のはずである.小さな<海>によって,時間が折りたたまれてしまい,スズキ君は前の時間に戻ってしまったのだ.ブラックホールも,重力によって星が潰れ,時間や光が沢山折りたたまれ押しつぶされ耐えきれなくなることで発生するとされている.
映画中にはこの表現が無かった.映画しか見ていない人は,<海>を何だと思ったのか気になる.ただの不思議現象ではないのだ(不思議現象ではあるが,自然災害とかそういった類のものではないという意).
●ウチダ君が研究していた死ぬということ
まず映画内ではウチダ君はアオヤマ君の仲良し友達という位置でしか無かったが,小説内ではアオヤマ君がお姉さんが消えてしまった世界で絶望しないで先に進むための重要な視点を得るための大切な役割を担っている(と思った).
第一に,ウチダ君も研究メンバーなのに,彼は映画内では何をしていたのか.何もしていない,ドジっ子キャラでしかなかった.
彼もアオヤマ君とハマモトさんと同じく手帳を持ち,この世界で重要な考え方である「死」について一つの結論を出す.
それがこの部分.
【「ほかの人が死ぬということと,ぼくが死ぬということは,ぜんぜんちがう.それはもうぜったいにちがうんだ.ほかの人が死ぬとき,ぼくはまだ生きていて,死ぬということを外から観ている.でもぼくが死ぬときはそうじゃない.ぼくが死んだあとの世界はもう世界じゃない.世界はそこで終わる.」
「でもほかの人にとって世界はまだあるよね?」
「それはほかの人はぼくが死んだことを外から見てるから.ぼくとしては見てないから」
「たとえばぼくがここで交通事故にあうとする」
「それは大事故?」
「大事故なんだ.ぼくは死ぬかもしれないし,死なないかもしれない.それで,こっちの線はぼくが死んだ世界,こっちの線はぼくが生きている世界」
「ぼくは生きているうちにいろんな事件に出会って,死ぬかもしれないし,死なないかもしれない.どんなときでも,どちらかだよね?そのたびに世界はこうやって枝分かれする.それで,ぼくは,自分というものは,必ず,こっちのぼくが生きている世界にいると思うんだよ」
「つまり,たとえぼくがウチダ君が死ぬのを見たとしても,それが本当にウチダ君本人にとって死ぬということなのか,ぼくにはわからないということだね?それは証明できない」】(p288~p299より)
まず,映画でこの描写がないと,この物語が何が言いたいのか,何が表されているのかさっぱりわからないと思う.「少年が恋したお姉さんは,少年の記憶に深く刻まれながら消えていった...少年は可哀想だけど健気で感動した」くらいしか無いと思う.
この物語の死生観は上記のとおりであり,お姉さんはアオヤマ君の世界から消えた=死んだと解釈すべきである.ただ,消えた瞬間にアオヤマ君の世界では消えてしまったけれどお姉さんは消えていない世界にいるのである.つまりパラレルワールドが生まれる,という考え方である.このパラレルワールドを「世界の果て」と表現している.
つまり,最後お姉さんは<海>=穴を塞ぐと消えてしまう=異なる世界に帰ってしまったのだ.アオヤマ君が<海>の中でお姉さんに「<海>を少しだけ残すことはできますか」と尋ねている.<海>は世界の果ての入り口でもあったのだ.
だから,最後お姉さんが消えてしまったあと,アオヤマ君は絶望しなかった.
自分はお姉さんが消えてしまった世界にいるけれど,お姉さんはお姉さんがいる世界にいる.だから「世界の果てに通じている道はペンギン・ハイウェイである.その道をたどっていけば,もう一度お姉さんに会うことができると信じるものだ.これは仮設ではない.個人的な信念である.」と述べた.
映画の最後にアオヤマ君が述べたこの文章,すっと腑に落ちなかっと思うけれど,それはこういう意味だ(と僕は思う).背景がわかればすっと入ってくるのではないだろうか.
●お父さんがお姉さんに話した解決しないほうがいい問題
このシーンも映画ではカットされていた.お父さんがフランスに行く際のバス停で,アオヤマ君とお姉さんが見送りするシーン(お姉さんはいないことになっていた).お姉さんに「世の中には解決しないほうがいい問題がある」と話している.それをアオヤマ君も聞いており,その後に夢の描写に入っていく.
映画では妹がお母さんが死ぬということを考え泣いてしまったあとになぜか熱を出して夢の話に入っていく.ただ,ここはお姉さんのことをずっと考えていたアオヤマ君はすでに答えがわかっている.だから夢の世界でお姉さんはアオヤマ君に「ごめんね」と謝るし,アオヤマ君は泣いてしまうのだ.
そのつながりが映画には無かった.
以上3点を大雑把にまとめてみたけれど,やっぱり無かったと思うし重要な部分だと改めて思う.
じゃあなんで映画見た人が良い,美しいって言うのかなと考えてみる.
それは人は,「生命の消失」という点に置いて美しさを感じやすい生き物であるところにあると思う.最後にお姉さんが消えてしまいアオヤマ君が寂しさから立ち直り「いつかお姉さんに会いに行こう」という話にすることで,クライマックスをさも美しかったかのように作り上げ,小説の大事な部分がおろそかになっていることが気づけずにいるのだ.
原作ありの映画は,監督の解釈(や好み)がそのまま出てくる,と改めて思った.今回のペンギン・ハイウェイに関しては,監督の趣味と合う人は「良い映画」と思うのではないだろうか.
少なくとも僕は,あの一見抽象的な物語をそのまま抽象的に終わらせてしまったことをとても残念に思っている.
2019.12.16 追記
amazonでペンギン・ハイウェイが観れるようになっていたため,再度改めて観て,やはり不完全燃焼で終わってしまったため,レビューを漁っていたところ,
ペンギンハイウェイの原作が面白くて映画がイマイチしっくりこないのは、映画が「小学生の夏休み」を描いていて、原作ではそれは背景に過ぎないからだ、という結論に至った。
というツイートを見て,若干腑に落ちたので,もう一度小説を読んでみたいと思う.
僕は「夏」に何も思い出がなかったため,感情移入できなかったのか.
なんて悲しい結末なんだ.