君の膵臓をたべたい
住野よるさんの,「君の膵臓をたべたい」を読んだので,その感想を書いていこうと思う.
主人公の「僕」と,膵臓の不治の病にかかった「山内咲良」の出会いと心の変化の物語.
僕自身,音楽を作る人間として,感動するものであったり美しいものであったり,言葉の表現であったり,そういうものに触れていかないといけないと思っているので,最近は特に美術館や映画,小説を読むようにしている.その一つがこの「君の膵臓をたべたい」だった.あっという間に読めたので,読書初心者でもオススメだと思います.僕も普段から読むわけではないので.
正直な話をすれば,「僕」の正確のひねくれ方が異常な気がした.きっと咲良との対比や心の成長を表現するため何だとは思うが,読んでいてそこだけ気分が悪かった.
咲良の元カレが「僕」に暴力をはたらくシーンがある.雨の中,殴られてアスファルトによろめく「僕」が彼に対して思った言葉が,とても醜い感じがした.表紙の男の子が書いていなければ,僕は主人公の「僕」を陰険で根暗でメガネを掛けた,全ての物事に否定から入る最低な人間だと誤るところだった.
表紙の彼が端正なものだったから成り立つ話かなと思う.
まあこんな話はいいや.
この文章を読んで,一番最初に思い出したのが「四月は君の嘘」だ.僕が何回見ても泣いてしまう漫画だ.(僕はアニメで泣く)
ヒロインの女の子の元気な感じとか,主人公の奥手な感じとか,その二人の間に流れる雰囲気とかが似ていたなあと思う.
「私が本当は死ぬのがめちゃくちゃ怖いって言ったらどうする?」
天真爛漫で,元気な咲良からこんな言葉を言われたら,誰だって目を背けたくなってしまう.人間は弱い.
人は,死を間接的に味わい,そこに特別な感情を持ってしまう.ただ,死には人を成長させる力がある.そうやって人が前を向こうとする瞬間に,僕は泣いてしまうようだ.
世界に対して塞ぎこんだ「僕」は,いつの間にか自分と正反対の咲良と一緒に過ごすようになる.咲良は膵臓の病で死んでしまう.その間を”日常を与えてくれる存在”として「僕」と共に過ごしたいという.
親友には死ぬことは伝えられない.伝えた瞬間日常が消えてしまうから.
咲良にとって,家族はもはや日常を与えてはくれない.ほんの少しの言動で傷つけてしまうかもしれないから.そうやって,今までとは程遠い関係になってしまうのだ.それは悲しいことだ.
僕がこの本を読んで一番印象に残っている一文がある.それは,
「私たちは皆,自分で選んでここに来たの。偶然じゃない。運命なんかでもない。君が今まで選んできた選択と,私が今までしてきた選択が私達を会わせたの。私たちは自分の意思で出会ったんだよ」
というものである.
これは,別に小説の中だけの話ではない.僕らが生まれたその瞬間から膨大な選択肢から,道を選択している.
今僕がここでブログを書いているのも,今までの人生の積み重ねの結果であるし,あなたがこのブログを読んでいるのも選択の積み重ねであるし,二つの長い人生の中のほんの一瞬が交錯してこの瞬間がある.これもあなたの選択なのだ.
人生は全部自分の選択であり,同時に自己責任だという重い言葉でもある.
しかし,逆に「なんでもできる」ということでもある.
「僕」にとってそれは「君になりたい」であり,
「君の爪の垢を煎じてのみたい」であり,
「君の膵臓をたべたい」だった.
ちょっとひねくれた,でも温かい青春を思い出したい方におすすめです.