時計の秒針音

少しずつコツコツ意味を貯めてく

千と千尋の神隠しを別の視点から捉え直す

今,「一生に一度は、映画館でジブリを。」という企画で,各映画館で「風の谷のナウシカ」含む4作品を再上映している.

 

僕は当然4作品全部見るつもりでいて,今日千と千尋の神隠しを改めて観た.

もう何十回も観ている映画だが,今日一つ疑問を持った.

いろんなまとめ記事では,「千尋の成長の物語」と書かれているが,ハク(ニギハヤミコハクヌシ)を救うための物語として見ることもできるのではないだろうか,ということ.

 

確かに,あの世界に迷い込んだ千尋は,最初のときと最後のときで大きく成長している.しかし,それに付随するサブストーリーがかなり濃いと思ったのだ.

 

なので,千尋の目線ではなく,ハクの目線から千と千尋の神隠しを捉え直してみたい.

 

 

 

物語中盤から,ハクは千尋と同じようにあの世界に迷い込み,「もう戻るところがない.魔法使いになりたい」と湯婆婆に近づき,魔女の契約を交わした.結果自身の名前を忘れ命を削られながら奴隷のように生きていた.

ハクは「ニギハヤミコハクヌシ」という,昔千尋が住んでいた河の神だ.都市開発のせいで河はなくなったという話がされていた.つまり戻るところが無いのは,河を都市開発のせいで潰されたからだ.

ここで宮崎駿のことを考えると,確かに幼女好きで有名だが,それと同じくらい自然を愛する人物である(と僕は思っている).であるとすると,高度成長に伴い失われていく自然に対して危機感や虚無感を抱えていることは間違いない.

もののけ姫では,自然(神々)と人類は共存をするためにどうすればよいか,ということを投げかけていた(ざっくり).しかし,結果現在自然は破壊されつくされ,再び自然を取り戻す動きはあるものの,それは以前あった自然とはまた違うものである,という終わり方をしている.

そして,現実では開発が進み自然が無くなっていき,以前は生物と常に共にあった河は減っていき,小さい子供たちはそこに河があったことを知らないで大人になっていく.そんな自然に対しての宮崎駿の思いが込められているように感じた.

当時もののけと同様の河の神であったハクは,居場所を失い,魔法で取り戻そうとしたのではないだろうか.しかし,名前を取られそのまま衰弱して行くしかない今は失き河の神に,どうにか救いを与えたいと宮崎駿千尋をあの世界に呼び出したと考えることもできる.

 

銭婆は「一度会ったことは思い出せる.忘れてしまっただけで」というふうに話している.

ハクは坊を連れ戻す代わりに,千尋たちを元の世界に戻すよう湯婆婆に交渉する.

その時

「それでお前はどうするんだい?私に八つ裂きにされてもいいんかい?」

のシーンで,ハクは運命を悟るような表情をしていた.その時は,もう殺されることを覚悟していたと思う.

そして,銭婆のところに迎えに行き

「白龍,あなたのしたことはもう咎めません.その子を無事送り届けなさい(うろ覚え)」と言われ,自分の命に変えても千尋を元の世界に戻そうと決意する.

 

そして忘れてしまった以前の自分の名前を,千尋接触することで取り戻す.本当の自分の名前を取り戻した時,真に湯婆婆の呪縛から解き放たれ,八つ裂きにされる運命を逃れる道ができたのではないだろうか.

一見すると,千尋を元の世界に戻すための使者のような立ち位置に見えるが,実は使者は千尋の方だったというわけだ.

河はなくなってしまった.しかし,ある人はそこに河があったことを覚えている.

「名前は記憶」ということ.

湯婆婆に名前を取られ,本当の名前を忘れてしまうと元の世界に戻れなくなる,というのは比喩で,本当は忘れ去られて消えてしまう者たちを,あそこに留めることで生き続けさせるということなのではないだろうか.

名前を失うということは,人から忘れ去られていくということだ.ハクのことを忘れてしまっていた千尋は,あの街に行くことで思い出し,ハクも生きることができた.神は忘れされた時にその存在が消える,というのはよく言われることだ.それは神だけじゃなくて人もそうだ.

 

「どうか失われていく自然を思い出してほしい.そこには君が小さな頃よく観ていた神様がいたことを.」

という宮崎駿の願いが込められているような気がしてならない.

 

ミュウツーの逆襲 EVOLUTION,Evolutionする必要ないでしょ

 縁あって試写会を観ることができたんだけれど,駄作&蛇足だった.

 

njobs.hatenablog.jp

 ↑原作への感想

 

試写会は,小林幸子さんの生歌をの「風といっしょに」を聞けた.今回は小林幸子さんとしょこたんが二人でデュエットした楽曲になっていたが,しょこたんも上手いんだけれど,小林幸子さんが圧倒的にうまくて,本当に上手い(語彙力)

演歌歌手ってやっぱり歌上手いんだなって思った.

CD買っちゃおうかなって思うくらい,演歌の.

 

ここからが本題だけれど,Evolutionする必要なかった.
不必要だった.

何がEvolutionだったのかというと,2次元アニメだったミュウツーの逆襲を3DCGにしてみた,っていう映画です.単刀直入に,技術お披露目会でした.

物語は導入にロケット団のサカキの具体的な介入とミュウツーの存在を前作より具体的に描いたくらいで,ほぼ原作の通り.

ピカチュウは名探偵ピカチュウの毛むくじゃらではなく,普通に3Dになっただけだったので可愛かったけれど,人がまず気持ち悪い.みんなトイ・ストーリーのキャラみたくなっていた.サトシが特に気持ち悪くて,最後まで違和感しかなかった.

 

サトシがミュウツーとミュウの技を両方受けて石になるシーンで,原作だと重々しい石になってしまったんだけれど,Evolutionはツヤッツヤの素材の鉄みたいなものになっていた.しかもピカチュウが「ピカピー」ってサトシを呼ぶシーンでそのツヤッツヤのサトシ普通に揺れてるし.もっと重いものじゃないの?軽いのサトシって.

 

そして,ピカチュウを始めとするポケモンたちの涙がサトシに集まるシーン.原作だとあまり気にならなかったが(というよりアニメのご都合主義なのでよくあることだという認識),Evolutionでは涙がなぜ滴らなく,そのまま目から直接飛び出てサトシに向かっていったのか謎だった.ギャラドスとか表情が全く変わらないまま目から水がめちゃめちゃに飛び出てサトシに向かっていったのが本当に謎だった.

もう少し表情豊かだった気がする.

3Dになったせいで,若干のリアリティを無意識に求めていたせいで,そういった出来事に対して違和感を感じたんじゃないかという考察をしている.

重力を感じたかったな.

涙が目から直接飛び出てサトシに向かうシーン,映画作成中誰も違和感を感じなかったのかな.あれは本当に不思議な時間で,感動シーンであるのに笑いがこみ上げてくるという,なんともおかしな話である.

 

また,ニャースニャースのクローンが「お月様が綺麗だにゃー」と会話するところがあるけれど,あれ今の子供達が観ても,唐突すぎてよくわからないでしょと思った.

その当時はニャースがまんまるお月さまの歌がエンディングテーマになっていたからその話だなとわかるけれど,それを知らない小さな子たちは「???」となると思う.

 

中途半端に子供向けにしたのが良くなかった気もする.

 

もう完全に大人向け(その当時の子供向け)にすればいくらかもう少し深みのある作り方ができたのかな.

 

監督,この映画で「ピカピーのシーンで何回も泣いた」(うろ覚え)とツイートしていたけれど,それって原作見てもきっと泣くよね.
3Dになってよかったことってなんなんだろう.なにもなかったように僕は感じる.

ミュウツーの声が,初期と同じだったからかなり期待したけれど,期待はずれだった.

うかつに3Dにするものではない,という知見を得られたのだった.

ミュウツーの逆襲でふいに泣いてしまった

妹がポケモンの初代映画「ミュウツーの逆襲」を見ていて,ふらっとテレビを覗いた手前引き込まれてしまって,そのまま最後まで見てしまったんだけれど,

あれは時代を先取りしすぎていたなと,まず思った.

科学が発展し,iPS細胞などが出てきて,「生物(クローン)を作り出す」ということが現実になってきたのはここ最近の出来事なのに,この映画が公開されたのは1998年7月18日である.20年前だ...

 

この映画の主題は「自分というものの存在意義・自分を生み出した人間への復習」

劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲 - Wikipedia

 

小さな頃は,なんとなく不安で怖い印象があったけれど,今見たときは全く別の印象を受けた.多くの人が名作と言う理由がわかった.

ミュウツーの逆襲,逆襲の相手は,自分を作った人間に対してだと思っていたけれど,本当はオリジナルに対してだったのかな.オリジナルを殺すことでオリジナルになりたい,オリジナルは自分で作られたとは思っていないけれど.

 

本物になりたいミュウツーたち,作られたものは,本物を殺さないと本物になれないと思っている.

 

みんな,本物なのに,偽物だって思ってしまう,作られてしまったから

 

オリジナルは自然に生まれ,コピーは人工に作られた.

 

でも生きている以上,みんなオリジナルだ.

ミュウツーたちはそれを頭のどこかでわかっていながらも,”作られた”ということが劣等感として残ってしまい,どうにか自分の存在を認めさせようとする.

「我々コピーはオリジナルを超えるように作られている」

「本物は本物だ。技を使わず力で戦えば、本物はコピーに負けない。」

ミュウツーとミュウの会話だが,自分をコピーだと認識しているミュウツーの悲しさがあまりに辛い.そして相手を思いやることを全くしないミュウ.

 

ミュウツーはミュウに自分の存在を認めてほしかったんだろう.私も生きている,もとはあなただが今は別の存在としているんだよ,と.

 

オリジナルとコピーで戦うとき,コピーのピカチュウがサトシのピカチュウにビンタするシーンで,サトシのピカチュウは一回もやり返さず叩かれ続ける.コピーピカチュウは,叩きながら泣いてしまう所が苦しい.

本当はこんなことは無意味であるとわかっているのに,倒さないと自分がなくなってしまうという使命感が,あの行動を引き起こさせていたんではないかなと思った.

 

最期はミュウツーのエゴだったな.

 

記憶を消してあげたのは,優しさだ.

けれど,消したのはオリジナルだけで,コピーの記憶は残ったままだろう.

それは戒めなのか.

ミュウツーたちコピーと一緒に,ミュウはなんでついていったんだろう.

ただの興味本位なのか,それとも.

 

今この世界にオリジナルはどれだけいるんだろうか.

みんな誰かのコピーじゃないだろうか.

コピーだと知りながら,僕らはオリジナルのように振る舞っているのかな.

僕の言葉は誰かの受け売りで,バカにしてくる君は,きっと誰かに言われたんだろう.

僕は僕になりたい,僕でいたい.

 

 

 

ペンギン・ハイウェイに関して

僕は森見登美彦の熱狂的なファンではない.

だから,深い考察とか知らないし,「こういったバックボーンがあって」とかも知らない.

 

ペンギン・ハイウェイの映画を早く観る機会を得たから,小説を読んでから観ようと思った.

なにかを批評するには,まず勉強が必要であるし,何も知らないのに批評することは大変愚かなことであると僕は考える.

penguin-highway.com

 

ペンギン・ハイウェイ (角川文庫)

ペンギン・ハイウェイ (角川文庫)

 

 

 

 

 

 この小説は,感覚的で抽象的な物語ではなくて,かなり練られた物語だ.というのも,最後のお姉さんが消えてしまうところから,その後のアオヤマ君のお姉さんへの考え方の変化は,以下の3つの点が伏線になっている.

 

・お父さんが言っていた,世界の果ての話=<海>

・ウチダ君が研究していた死ぬということ=『消えたお姉さんの話』

・お父さんがお姉さんに話した解決しないほうがいい問題=夢の話

 

そして,映画ではこの3点が全てカット(というより取り扱われていなかった).

一番重要な物語の世界観や考え方の部分がごっそり抜けているのである.

なんてこった,と僕は思っていた.ぶっちゃけ残念な映画だと思った.足りなすぎる.

 

なので,結構な人(例えばプールと銃口のジン君や,おいしくるメロンパンのナカシマさんとか目についた)が高評価していたためちょっと怖いけれど,僕なりになぜあまり良くないのかを述べたいと思う.

 

一点ずつ見ていきたい.

 

●お父さんが言っていた,世界の果ての話

これは,喫茶店でのお父さんとアオヤマ君との会話で,

「世界の果ては遠くない」

「世界の果ては折りたたまれていて,世界の内側にもぐりこんでいる」

 という所.

ここを映画では,がま口の財布で説明していた(たしか).内側が世界で,外側が端だとしたら,ひっくり返すと世界が外になって,果てが中に来る.だから世界の果ては内側に潜り込んでいる,という理論だ.

小説では,端は折りたたまれている,と表現している.ここで思い出されるのは,プロミネンスによって分離した<海>がスズキ君に当たることで時間が巻き戻るという現象だ,

ネタバラシになってしまうけれど,<海>は地球にできてしまった「穴」であり時間である.物語内でブラックホールの話があったのも,この<海>という存在を説明するための引用のはずである.小さな<海>によって,時間が折りたたまれてしまい,スズキ君は前の時間に戻ってしまったのだ.ブラックホールも,重力によって星が潰れ,時間や光が沢山折りたたまれ押しつぶされ耐えきれなくなることで発生するとされている.

映画中にはこの表現が無かった.映画しか見ていない人は,<海>を何だと思ったのか気になる.ただの不思議現象ではないのだ(不思議現象ではあるが,自然災害とかそういった類のものではないという意).

 

●ウチダ君が研究していた死ぬということ

まず映画内ではウチダ君はアオヤマ君の仲良し友達という位置でしか無かったが,小説内ではアオヤマ君がお姉さんが消えてしまった世界で絶望しないで先に進むための重要な視点を得るための大切な役割を担っている(と思った).

第一に,ウチダ君も研究メンバーなのに,彼は映画内では何をしていたのか.何もしていない,ドジっ子キャラでしかなかった.

彼もアオヤマ君とハマモトさんと同じく手帳を持ち,この世界で重要な考え方である「死」について一つの結論を出す.

それがこの部分.

 

【「ほかの人が死ぬということと,ぼくが死ぬということは,ぜんぜんちがう.それはもうぜったいにちがうんだ.ほかの人が死ぬとき,ぼくはまだ生きていて,死ぬということを外から観ている.でもぼくが死ぬときはそうじゃない.ぼくが死んだあとの世界はもう世界じゃない.世界はそこで終わる.」

「でもほかの人にとって世界はまだあるよね?」

「それはほかの人はぼくが死んだことを外から見てるから.ぼくとしては見てないから」

 

「たとえばぼくがここで交通事故にあうとする」

「それは大事故?」

「大事故なんだ.ぼくは死ぬかもしれないし,死なないかもしれない.それで,こっちの線はぼくが死んだ世界,こっちの線はぼくが生きている世界」

「ぼくは生きているうちにいろんな事件に出会って,死ぬかもしれないし,死なないかもしれない.どんなときでも,どちらかだよね?そのたびに世界はこうやって枝分かれする.それで,ぼくは,自分というものは,必ず,こっちのぼくが生きている世界にいると思うんだよ」 

 

「つまり,たとえぼくがウチダ君が死ぬのを見たとしても,それが本当にウチダ君本人にとって死ぬということなのか,ぼくにはわからないということだね?それは証明できない」】(p288~p299より)

 

まず,映画でこの描写がないと,この物語が何が言いたいのか,何が表されているのかさっぱりわからないと思う.「少年が恋したお姉さんは,少年の記憶に深く刻まれながら消えていった...少年は可哀想だけど健気で感動した」くらいしか無いと思う.

 

この物語の死生観は上記のとおりであり,お姉さんはアオヤマ君の世界から消えた=死んだと解釈すべきである.ただ,消えた瞬間にアオヤマ君の世界では消えてしまったけれどお姉さんは消えていない世界にいるのである.つまりパラレルワールドが生まれる,という考え方である.このパラレルワールドを「世界の果て」と表現している.

つまり,最後お姉さんは<海>=穴を塞ぐと消えてしまう=異なる世界に帰ってしまったのだ.アオヤマ君が<海>の中でお姉さんに「<海>を少しだけ残すことはできますか」と尋ねている.<海>は世界の果ての入り口でもあったのだ.

だから,最後お姉さんが消えてしまったあと,アオヤマ君は絶望しなかった.

自分はお姉さんが消えてしまった世界にいるけれど,お姉さんはお姉さんがいる世界にいる.だから「世界の果てに通じている道はペンギン・ハイウェイである.その道をたどっていけば,もう一度お姉さんに会うことができると信じるものだ.これは仮設ではない.個人的な信念である.」と述べた.

映画の最後にアオヤマ君が述べたこの文章,すっと腑に落ちなかっと思うけれど,それはこういう意味だ(と僕は思う).背景がわかればすっと入ってくるのではないだろうか.

 

●お父さんがお姉さんに話した解決しないほうがいい問題

このシーンも映画ではカットされていた.お父さんがフランスに行く際のバス停で,アオヤマ君とお姉さんが見送りするシーン(お姉さんはいないことになっていた).お姉さんに「世の中には解決しないほうがいい問題がある」と話している.それをアオヤマ君も聞いており,その後に夢の描写に入っていく.

映画では妹がお母さんが死ぬということを考え泣いてしまったあとになぜか熱を出して夢の話に入っていく.ただ,ここはお姉さんのことをずっと考えていたアオヤマ君はすでに答えがわかっている.だから夢の世界でお姉さんはアオヤマ君に「ごめんね」と謝るし,アオヤマ君は泣いてしまうのだ.

そのつながりが映画には無かった.

 

以上3点を大雑把にまとめてみたけれど,やっぱり無かったと思うし重要な部分だと改めて思う.

じゃあなんで映画見た人が良い,美しいって言うのかなと考えてみる.

それは人は,「生命の消失」という点に置いて美しさを感じやすい生き物であるところにあると思う.最後にお姉さんが消えてしまいアオヤマ君が寂しさから立ち直り「いつかお姉さんに会いに行こう」という話にすることで,クライマックスをさも美しかったかのように作り上げ,小説の大事な部分がおろそかになっていることが気づけずにいるのだ.

 

原作ありの映画は,監督の解釈(や好み)がそのまま出てくる,と改めて思った.今回のペンギン・ハイウェイに関しては,監督の趣味と合う人は「良い映画」と思うのではないだろうか.

少なくとも僕は,あの一見抽象的な物語をそのまま抽象的に終わらせてしまったことをとても残念に思っている.

 

 

 

2019.12.16 追記

 amazonペンギン・ハイウェイが観れるようになっていたため,再度改めて観て,やはり不完全燃焼で終わってしまったため,レビューを漁っていたところ,

ペンギンハイウェイの原作が面白くて映画がイマイチしっくりこないのは、映画が「小学生の夏休み」を描いていて、原作ではそれは背景に過ぎないからだ、という結論に至った。

 

というツイートを見て,若干腑に落ちたので,もう一度小説を読んでみたいと思う.

僕は「夏」に何も思い出がなかったため,感情移入できなかったのか.

なんて悲しい結末なんだ.

万引き家族を観てきた

万引き家族を観てきた.

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gaga.ne.jp

 

他の映画を観に行った際のCMで見かけて,絶対観に行こうと思っていたので間に合って良かった.

 

一つの映画を作る人は,物語を作って,配役を決めて,カットを撮って,音楽を決めて,と一つの新しい世界を作り上げるから,本当にすごいと思う.

そこには確実にもう一つの世界がある.間違いない.

 

僕は普段から割と映画を観に行く.

映画の中で,詰めが甘い部分とか,無理矢理の辻褄合わせとかを見るととても残念な気持ちになってしまうし,なら作品作らなければ良いじゃないかと思ってしまう.(SPECとかひどかった,あれはドラマシーズンで抑えるべきだった).

万引き家族」は,そういう矛盾が一切なく,登場人物一人ひとりの思考とかバックグラウンドがそれぞれ確立していたと思う.観終わったあとに,とてもすっきりとした印象を覚えた.

わずか2時間ちょっとだが,もっと長い時間を観ていた気もする.

一人ひとりの背景がしっかり決まっているからこそ,それぞれの人物がそれぞれの意志を持って動き映画になる.そこには辻褄合わせなんて存在しない.

漫画とかもそうで,キャラクターにもそれぞれ様々な背景があるわけで,それが決まっていないとぼやけてしまう.

久しぶりにしっかりとした映画を観れた.あと,出演している俳優みんな演技上手くて最高だった.

リリー・フランキー,結構な年なのにものすごく格好良いし,安藤サクラめっちゃ下町の女性感があってリアル過ぎた.娘役の佐々木みゆちゃんは,あの年齢なのに本当に切ない感情で演技していて天才かと思った.

 

”家族を超えた絆”って書いてあるけど,僕はそうは思わない.彼らは結局は家族を超えることはできなかった.

それぞれがそれぞれの秘密を抱えて,でもその秘密をお互い知らない.

彼らがやっていたことはおままごとだったのだ.でもそのおままごとの一部を切り取ると,確かにそこには家族が存在していた.

なんて悲しいだろう.

彼らは世界から置き去りにされてしまった,誰のものでもないものを,ひっそりと万引きする.

新しい名前を得ることで,彼らは自分自身から,事実から逃げることができた.新しく生まれ変わった人たちが,集まって家族になることができた.

ただ,存在するのは偽りの名前であり,だからこそ本物の家族にはなれなかった.

家族ってなんだろう.血がつながっていることか,時間を共有していることか.

anoneの世界では,バラバラの人たちが間違いなく家族になっていたなぁ.

あれは現実じゃなくて理想なのかな.

 

万引き家族は,結局家族になる覚悟ができていなかった.

だから逃げてしまった.家族を置いて.

彼らは家族から逃げてしまった.その瞬間おままごとになってしまった.

 

 

知らない間に人は大人になっていて,役割を課される.

そんな準備なんてしてこなかったのに.

悲しいね,僕らはずっと子供だったのに,子供に子供ができてしまって仕方なく大人になるんだね.

逃げて隠して,僕らは愚か者だね.

 

いつかまた会えるなんて嘘だね.

もう二度と会えないよ僕ら.

それでも「またね」って言ってしまうんだね.

少しの希望を残したいから.

さよならの朝に約束の花をかざろう

「さよならの朝に」の画像検索結果

ぎりぎりになって観ることができたので,自分の記録のためにもここに残しておきたい.

 

僕はこの映画を観始めた時,「永遠」がテーマであると思っていた.

長寿の一族である主人公と人の子が,出会い死ぬまでの話で,「永遠の命を多くの人は望むけれど,それは決して良いものではなく,異なる者同士が出会ってしまったら哀しみしか生まない」ということを伝えたいのかなと思っていた.

人の赤子を拾った主人公は,母として共に生活していき,いつか人の子が母の時間を通り過ぎてしまう.主人公は永遠を前に無力で,愛するものは歳を取っていき死ぬ.

冒頭で「外の世界に出たら,誰も愛しては行けないよ.本当の一人になってしまうからね」という長の言葉があった.

それは,長も昔人間の世界に足を踏み入れ,人間と愛し合い,そして愛して人が死ぬのを見届けたことがあったからだろう.

決して混じり合えない種族の隔たりがそこにはある.

 

(ただ,主人公の声があまりに甘ったるくて,感情移入が難しかった.

また,幼少期の人間の子の棒読み感も観てて辛くなってしまった.

それがもっと良ければ最高の映画だったな)

 

風景もとても美しく,音楽も最高だった.音楽はサントラまで購入した.エンディングの曲が特に好きで,ボーカルの方がrionosさんという方だった.

 

twitter.com

 

 

歴史を織り込む機織りの一族というのも,今までに無い新しさがあった.

人が生まれてから死ぬまで,それを1人の年を(ほぼ)取らない母が看取っていくということ,を伝えたかったらしい.レビューを見て知った.

 

人の子が主人公の手から離れ,人と愛し合い家族を作るところがあり,それと戦争シーンが同時進行していたので,僕はてっきり,またその母親が戦争で死に,子供を主人公が拾い育て,歴史は無限に繰り返す,ということを表現したいのかなと見ながら思っていたから,そこは予想を裏切られ意表を突かれた.

 

もう一回しっかり観たい映画だ.まだまだ自分の中で浅い部分が多く,とにかく忘れないうちに残しておこうと思った次第.

 

ーーーーーーーーーー

 

この作品を受けてできた音楽がノクターンの「機織り機」という曲だ.

 

music.apple.com

 

なぜ轟音を選んだのかだったり,映画を観たあとだったらさらによくわかるかもしれない.聴いてみてくれると嬉しいな.

 

 

 2019/9/22追記ーーー

僕のTLで話題になったので思い返してみた.

自分に子供ができたとして,その子が天寿を全うし死ぬまでをみることができる親はどれだけいるんだろう,と今ふと思った.普通だったら親が子を看取ることはできない.

 

エリアルという少年が異性を意識しだしたタイミングの,心の葛藤が辛かったのを映画を観ていた時に感じたのを思い出した.なぜレビュー当初に書かなかったのか.

親にしては幼い容姿であるマキアを,最初は親だと思うが,徐々に容姿が自分と近くなり異性として意識しだしてしまうところがかなりリアルだった.普通であれば親は自分の成長とともに年老いていくが,それがない.同世代の異性なのに親という矛盾がエリアルを苦しめていた.その心情描写がかなり細かく描かれていたと思う.

そして,自立し自身の家庭をもつエリアルは,最後人間として天寿を全うし死ぬ.

この生命の流れを見ることができたマキアの心はどういう感情だったのか.

僕には一生理解できないかもしれないな.

何かの生命が生まれ,死ぬ.

その一つの区切りを最初から最後まで見ることができたマキア.

それはとても美しい関係性だと思った.

 

エイリアが図らずとも人間との子を生み,それを捨て自分の人生を生きる選択をしたところ,ここは何か大きな衝撃があった.イオルフの民にとって,その出来事というのはヒビオルの小さな綻びや傷であるだけなのだ.長い生命の中のほんの一部であるのだ.

 

何もかもとりあえずでたらめな世界の所為にして生きていこう.

君を失うことも,正しい選択ができなかったかもしれないことも,誰かを傷つけてしまったことも全部.

メアリと魔女の花を観て,宮﨑駿が何故すごいかわかった気がする

http://maryflower.jp/img/ogp_v2.png

メアリと魔女の花を観たので頭の整理も込めて,ここに残しておく.

 

一言で言えば「ジブリで王道魔女映画やってみた」

 

だと思う.(正確には宮﨑駿の作風で)

 

それも当然で米林監督は千と千尋の神隠しハウルの動く城崖の上のポニョで原画を担当していたみたいだ,当然当然.

ボク個人としては,借りぐらしのアリエッティはいまいちだったけど(人間と小人の恋愛はちょっと映画にするにはな...)思い出のマーニーはわりと好きだったので結構期待していました.

 

スタジオジブリ,は賛否両論あると思うけれど,圧倒的に宮﨑駿を筆頭に動いていたように思う.というか,「宮崎駿スタジオジブリ」って思ってる人がほとんどなんじゃないかな.

サマーウォーズバケモノの子細田守とかも,やっぱり最初はジブリを目指していたし,エヴァ庵野ジブリだし.

マーニーまでは米林監督はジブリにいたので少なからず宮崎駿の息がかかっていた(もしくは意識しないのは無理)からジブリ感もある映画だったように感じる.

 

さて本題だけれど,メアリと魔女の花は米林監督が自分の自由に映画を構築できる状態で初めて作った映画である.赤毛の女の子が黒猫の相棒と一緒にほうきに乗って魔法の国に行って色々あって無事帰ってきたよって映画だ.

この色々あっての部分に米林監督が宮崎駿を超えられない理由があるように思った.

 

まず,魔法の国では生物を新たな生命にする研究が盛んに行われていた.それの最終段階が人間を新たな生物にするというものだ.そこで,メアリが若干好意を寄せていた男の子のピーターが魔法の力によってキメラのような新しい生物に作り変えられるシーンがある.そこにファンシーさを入れすぎた(つまり小さい子でも怖がらずに見ることが出来るデフォルメ感)ところが非常に残念だった.子供受けを狙ったのか米林監督が優しいのか.

 

ここは思い切りバケモノのようなキャラに描く必要があったとボクは思う.映画では一瞬だけピーターが魔法の力で進化するが,それが失敗しどろどろした水色のものに包まれてしまう.

たとえば,ここで「人の命を自分の好奇心のために利用するのは愚かだ」というテーマがあったとすれば,どれだけ残酷なことをしているんだというメッセージを込めたキャラに描く必要があったはずだ.

 

もののけ姫では,かなり主要キャラだった白狼の親が首を取られたり,乙事主が闇落ちしたり,トラウマになりそうなところがずいぶんある.ただ,色々考えられるようになって,あの映画の真の意味を深いところで理解することが出来る.

それは子供ながらに,自然というものは偉大であるということを感じ取ったのではないだろうか.

それがメアリには無かったように思う.

もっとその点について深く考えられれば,ボクはもっと楽しめたなー,と思ったりします.

 

(あと,黒猫けっこうブサイクでざんねんだったけど,宮崎駿がジジっていう超キュートな猫描いちゃうので仕方ないかなとも思ったり)

 

結論を述べれば,宮崎駿の凄さっていうのはその物語の深さにあるんじゃないかなってことです.

同じ絵柄でこう感じ方が変わってくるのは,それが理由な気がします.

多分見たらボクの言いたいことがよくわかると思うので,興味をもった方は観てみて感想ください.