ポケモンを通して夢を見ていた
先日ポケモンのMVが発表された.楽曲はBUMP OF CHICKENが提供しており,曲名は「Acacia」だ.
【Official】Pokémon Special Music Video 「GOTCHA!」 | BUMP OF CHICKEN - Acacia
※この記事は,バンプのファンというよりもポケモンを通して成長してきた1人の人間としての感想です.
このMVは,初代から最新作までのポケモンを,男の子と女の子目線で総ざらいしていき,先につながっていくというコンセプトのものだ.
父がゲーム好きということもあり,僕の生活には小さな時からゲームが存在していて,ポケモンもその一つだった.小さいながらにキャラクターたちに夢中で,架空のポケモンを自由帳に書いたりしたり,「いつかポケモンがいる世界になる」と信じていた.
多くの人がポケモンを通ってきたと思う.そこにはありとあらゆる想い出があって,泣いたり笑ったりしていたはずだ.新しいポケモンのタイトルが出れば,友達らとその話題でもちきりになったのを覚えている.それはなにかわからないキラキラしたもので溢れていた.
このMVの男の子と女の子は,ポケモンの世界の中で旅をしていて,多くのことを経験し,それは昔抱いていた自分の想像する未来「こういう世界がいいな.僕もこういうことを経験したい」と合致する.そして,現実と対面する.
ポケモンは,多くの大人によって作られている.そして,それを子供たちが接することで夢を与える.大人たちは,決して経験できないいわば「夢の舞台」を創造する.僕は夢を見ていた.ただ,いつまで立っても僕の生活にはポケモンはいなかった.夢だった.
作品を作るということは,ある種「非現実を作り出す」ことだと思う.小さな頃はそれを非現実だとは全く思わず,「未来のあるべき姿」だと錯覚し,それを信じていた.今僕は大人になり,それは夢だとわかってしまった.現実は重く苦しい.
大人たちは,そんな苦しい現実から逃避するように夢を作り出す.それはとても明るく楽しい夢で,夢の中ではなんだってできるのだった.その夢は子どもたちに夢を見させる.子どもたちは夢の中で生きていた.
グリーンやブルー,レッドらは,このMVの中で生きていて,僕の記憶の中でも生きていた.変わったのは僕だけだ.時間が経ってしまった.でも確かにこの記憶の中にはあった.
ポケモンを通して夢を見ていた.それが夢だと知っていて,なお見ないようにしていた.「いつかは...」という期待を心のどこかで願ってしまったんだ.「Acacia」を聴いていた僕の隣にピカチュウはいなくて,代わりに車が走っていた.昼食時間と名付けられた時間内にコンビニで買ったサンドイッチを食べている.自由とは正反対だ.生きるために仕事をして,対価として金をもらっていた.その金で生きていた.僕ができることは,苦しい現実から逃避するような夢(しかもそれはとても幸せな夢)を作り出していくことなんだと思った.
それでもまだ旅をしたいと願っている.
他人と比べることをやめることができた
創作をしていると,同業の他の人の活躍に目が止まり,知らない間に対抗心を燃やしたり,勝手に傷ついたりすることがある.嫉妬は醜い感情だと知っていながらも嫉妬してしまい,特に自分の創作物に対して「いいね」とか「リツイート」とかをしてくれる人が他の人に対しても同じようにしていると負けたような感覚になる(褒めるのは誰にも与えられた権利).
この手の感覚に割と長めの間悩まされてきた.今はTwitterでいいねやリツイートによって,全然知らない同世代の活躍とかも,どんどん視界に入ってくる.僕の場合は音楽をやっているので,対バンであったり仲の良いバンドの活躍が嫌でも入ってくるので,知らない間に精神がやつれていて,でもそれは周りには見せないようにしなきゃならなく(自分で原因がわからないときもある)勝手に病んだりしていた.
僕のようなインディーズバンドは,ライブ活動をするためにチケットノルマをクリアするのに精一杯で,大体はクリアがならず出費がある.月に5本とかライブを行うと,活動費はどんどん減っていく.ただ他のバンドに負けたくないから,活動の質は落とさず,いやむしろより活動的にならなくてはならず,音源制作であったり,MV制作であったり,良いアー写を撮ったりしてメディア活動をするようになっていた.
「この層の人たちが好きそうな音楽を作ったほうが良いかも」とか「これは売れ線でメロディが一般受けしそう」とかいうことを,僕でさえも考えるようになっていた.みんなが歌いやすいような曲のほうがいいかもとか,サビはキャッチーに,とか.
僕の将来的な目標は,音楽活動は活動で得たお金だけで行いたいというものだ.
ただ現状それは厳しかった.
新型コロナによって,活動はめっきり減って,そういう情報もものすごく減っていった.資金も減ることが亡くなったので自分の活動や欲しい物に費やすことが徐々にできるようになってきた.
今は周りの活動を見なくなった結果,自分の音楽を見つめ治す時間になっている.
なんで音楽作るようになったんだっけ?
なぜ創作を始めたのか.それはできた作品が自分の好きな作品になっているからじゃないだろうか.僕はそうだ.
自分の作った音楽がものすごく好きです.
数年前の音楽の作曲家の人がトリビュートで学生の前でインタビューに答える,という番組(題名は忘れた)で,Mr.Childrenの桜井さんが「自分の作った曲は自分では殆ど聞かない」と答えていて,それがプロなのかーと思っていたが,それでも僕は自分の作った音楽を愛しているしとても好き.とても聞くし,聞くたびに「良い曲だなー」と思っている.
どの曲を聞いても聞いたことがない僕だけの音楽になっている.
言葉の選び方であったり,メロディや楽曲構成,全部僕の好きな音楽.これは宝物.
いつのまにか,それを忘れていて,誰かに好かれるための音楽に若干なってしまっていたかもしれない.
もちろん多くの人に僕の音楽が好き,と言ってほしい,たくさん感想がほしいし,考察をしてくれたりすると興奮する.
だが,それ以前に僕が僕の作るものを愛せることが大事だった.僕のための音楽だった.
だから今後ライブ活動ができなくなれば,それはそれで僕は音楽を作り続ける事ができる.
オンラインでMIXからマスターまでしてもらい,プロの楽曲同様の仕上がりにして永遠に自分が一番好きな音楽を聞き続けることができるのだから.
創作に困っている人,嫉妬とかすることが醜いと思いながらも嫉妬してしまい,それに傷ついている人,たくさんいると思います.
僕は,自分がなぜそれを作っているのか,それは楽しいから,ということを思い出すと,他人のことはどうでもよくなってくるので,おすすめです.
他人の評価は蜜の味で,中毒性がある.ただそれを見(聞い)たことによる楽しさや嬉しさは創作本来の楽しさや嬉しさではない.
創作本来の楽しさや嬉しさは,自分の頭の中にあるものを現実世界に生み出すこと,それ以外にない.
僕は早く自分の作った楽曲が完成したのを聞きたい(まだ購入したポップガードが届かず,歌録りができない)
僕らのことは僕らで守るしかない (コロナウイルスに関して
コロナウィルスによって,今の政府の対応がダメダメだと各地の方面から声が上がっている.
今回,娯楽産業であるライブハウス等のところから,要望書の提出がされたところです.各自署名ができますので,下リンクから署名しましょう.
今回は珍しく2テーマに分けて文章を書いていこうと思います.
1つ目は,今回の自粛要請に対する政府に関して,
2つ目は,今回のコロナウィルスに関して.
です.
1今回の自粛要請に対する政府に関して
みんなかなり鬱憤が溜まっていると思います.論理的にも国民が目に見えるレベルで疲弊しています.僕のバンドも自主企画を打つ予定でしたが,延期を余儀なくされました.各ライブハウス等関係者,フリーランスの方々,固定給が出ない人たちは実生活に直接インパクトを与える影響が出ていると思います.本当に苦しい状況です.
一方,僕たちは生活するために,様々な支払いをする必要があります.家賃,光熱費等,食費,etc...
しかし,これを支払うためのお金がないのです.アベノミクスによって,就職率は上がってきているという統計が発表されている中,消費税増税により僕たちの日々の支出は徐々に増えていっています.100円のものが110円になり,10000円のものが11000円になるということです.バンドマンの目線で話せば,10000円のエフェクターとエリクサーの弦を購入できる金額で,エフェクター一台しか購入できず,税金として国に徴収され還元は全くされていない状況ということです(還元がされていないというのは極端な言い方ですが,あくまで非常事態に僕たちに対して直接的な支援がされていないことを指しています.)
さて,今この文章を読んでいる人たちは,おそらくいわゆる「お金持ち」に分類される人たちは少ないと思います.ただ,総務省の発表によれば,国民は「2018年平均の1世帯当たりの貯蓄現在高は、平均値で1752万円」の貯蓄があるらしいのです.
え?こんなお金持ってないって?僕もそうです.日々の生活に収入はすべて支払われ貯蓄も生活を切り詰めないとできない状況です.実際の実態により近い状況を見るためには,中央値でもみる必要があります.
また,SMBCの調査では,20代・30代・40代における預貯金額において,「貯蓄ゼロ」の割合が20代が19%,30代が20%,40代が23%という結果を出しています.
5人に一人以上の人が貯蓄が0だという状況であるのにも関わらず,今回のコロナウィルスによる政府からの支給物としての検討として和牛商品券が挙げられ,麻生財務大臣は「10万円の支給をした場合,貯蓄に回される」旨の回答をしています.
政府の認識と現状に大きな乖離を感じています.
それは皆さんも重々承知のことだと思います.
僕らはお金がない.本当にない.じわじわと行われているから感覚が鈍くなっているけれど,どんどん僕たちは貧乏になっている.普通じゃない.
ただ,現政権は「金はあり,貯蓄に回されるから商品券や旅行券」の配布を検討しています.
今日を生きるためのお金さえままならない状況なのにです.
ここからが言いたいことなのですが,この政治を選んだのは僕たち国民である,ということです.「芸術家は政治のことを話すのはダサい」という頭のおかしい風潮がありますが,芸術家も国民なのです.自分を守る必要があります.今回のような緊急事態に国民により添えない人たちを当選させたのは誰ですか?あなた方一人ひとりに与えられた権利である「選挙への投票」をおろそかにし,自分の頭で考え行動しなかった人は誰ですか?
政府からすれば,「自分たちは民意によって当選している.なので,自分たちのやりたいようにやるし,法人から支援されているから,法人は優先的に守ろう」ということを考えるのは至極当然のことだと思います.
誰かが救ってくれると考えていますよね?誰も救ってはくれません.大きな権力は全員を守るほどの善意にはなりえません.
なので自分たちから動く必要があります.
増税した消費税は社会保障に充てると言っていたにも関わらず,法人税の減税分に充てていて「すみません,次からはきちんと社会保障にあてます」と言っている人をなぜ信用できるのですか?あなたが汗水垂らして,時間を費やしてストレスを抱えながら手に入れたお金ですよ?それを法人税減税分に当てられていたのです.自分たちに還元されていますか?なんのために税金を支払ったのですか?疑問に思わないのですか?
このような事態になってしまっているのは,このような人を選んだ,または他の人を選ばなかった,権利を放棄した僕らにあると考えます.
なので,今後を考えましょう.もう今の状況にグチャグチャ言ってもどうしようもないのです.
なので声を上げましょう.この狂っている世界に小さな声を少しずつ上げて,一人ひとりが立ち上がる必要があります.
なにも難しいことはないです.自分たちを守ってくれる人を選べばよいだけです.今回の件で浮き彫りになっている状況を見て,自分たちを守ってくれる人だと思いますか?
自分たちを全力で守ってくれる人に投票しよう.
文化を守れる人に投票しよう.
自分たちのことは自分たちで決めていこう.
自治ができていない僕らの国をどうにか守っていこう.
2 今回のコロナウイルスに関して
今回のコロナウイルスにより,全国的に自粛要請が出ており家で過ごす人たちが多くなっております.政府の対応がずさんであり,国民は日に日に衰弱していき,「もう大丈夫じゃね!?あんまり死者も出てないみたいだし,亡くなった人も高齢者が多いから,俺ら若者はかかっても死にはしないでしょ!」という声が少しずつ見えてきている.
下記ツイートを御覧いただきたい.
ごめんね、しつこいのわかってるんだけど、インスタで読んだ記事があって、これ読んでから今回の件との向き合い方が変わりました。シェアさせてー!イタリアでどんな風に感染拡大したか、簡易的に日本語に訳してみたからみんな見てみて!間違ってたらごめん! pic.twitter.com/Cev6klGTph
— 柳喬之 takayuki yanagi (@yanagitakayuki) 2020年3月27日
現状,日本の状況は諸外国のコロナウイルスの爆発的増加の一歩手前と一緒なのだ.メディアは海外の状況を綿密に報道することはなく,あくまで国内の状況を机上の空論として専門家と話している.実際にその状況に陥ったことがないので危機感があまり感じられない.それによって国民もそこまでの危機感を感じれずにいる.
辻仁成さんの文章だが,ここにも書いてあるように,やはり日本は諸外国の最悪の状況へ同じ道をたどっていると感じられずにはいられない.
このままだと,本当に人が大量に死ぬ.他人事ではない.
自分の意志とは違うところで人が死ぬ.
僕は,芸術家として,ライブができないことにものすごく,本当にきつい気持ちになっているけれど,公演の延期やキャンセルについては後悔していない.なぜなら,本当に人が死ぬからだ.
やりすぎくらいでいいよ.
足りなくて死ぬよりかはやりすぎて生きようよ.
まだ,僕ら死ねないよ.
本当に死が蔓延しているよ.
油断できないよ.
オリンピックとか本当にありえないよ.
自分の身は自分で守ろう.
今は自宅で待機するんだ.ありがたいことにアマプラだったり,サブスクだったり,今は家でもいろいろなことができる.
僕もできる限りコンテンツを出す.
だから,みんな,死なないで.
絶対に油断はだめ.
生きて会おう.
約束してほしい
社会に出ても失敗してよいの?
僕は就職一発目で相当苦労したマンなのだけれども,今日Twitterで目からウロコのツイートを見て驚きを隠せず,ブログに書くことにした.
新卒でヤバいのは入社した時点で「いかに叱られずに仕事をこなせるか」を基準にしてる子。
— 目玉P (@medamap) 2020年3月16日
こういう子は理不尽に叱られすぎてすでに壊れてるので、普通に使えるようにする前に失敗しても大丈夫とか色々修正してあげないといけない。
「失敗しても大丈夫」という点である.
もちろん,僕は最初は失敗しても大丈夫だし,失敗してたくさん学んでいこうという意識で生きてきた.大学でも「何も発表せず,いきなり大きなものに取り込むのではなく,小さな段階で失敗して,そこから少しずつ学ぶことで段々と正解に近づいていけばよい.失敗しないというのは恐ろしい.何事もトライアルアンドエラー.」という考えの場所だったので,間違って当たり前だ,と生きていた.(誤解してほしくないのは,それでもわざと間違おうとは断じてしていない.あくまで,全力で取り込んだ結果間違ってしまったとしても,それは仕方がない.そこから何を学んでどう生かしていくかをよく考えていた.)
就職一発目の職場では,職種柄今まで学んできたことはほとんど生かされない場所での仕事だった.なので0から学び直すのだが,そこでの慣習や独自の言葉,ルール等が色々あり,覚えきれなくて抜けがあったりしてしまった.何も知らないままに全力で取り組んではいたのだけれど,結果先輩の鼻についてしまいかなりひどい態度を取られていた.
僕だけではないとは思うけれども,自分の考えていた方法で取り組み間違いだとわかるととても良く理解ができる.「あ,なるほど.これをしたらこうなるからだめなんだな.じゃあこうすれば良いんだ」と自分の中で納得のいく方法が思いつき,そこから派生的に「今はこうやっているけれども,これはこうだから,ここをこうすればさらに効率が良くなるな」と一気にわかるようになるんだ.そういう人結構いると思っている.
大学のときは,プログラミングを学ぶ授業もあったことで,ほんとに秒単位でトライアルアンドエラーをしており,そのたびに軌道修正を行っていた.
これが社会に出てからは禁止されてしまった.社会に出た途端,間違いは絶対に犯してはならず,間違いは悪.間違ったお前が悪い.だから間違いが内容にしっかり考えろ.でもこういうミスがあるとかは自分で気づけ.という地獄のような場所に放り出される.(実際地獄だった)
なので,このツイートから「間違ってよいって思っている年上の人っているの?!」と驚いた,ほんとに.
僕は自分が間違ってものすごく怒られて,ひどい対応をみんなからされて,職場で萎縮してしまい,余計に動けなくなり,うまく考えられなくなりまたミスをするという悪循環に陥っていた.なので,自分よりあとに来る人には間違ってもよいということと,僕はたくさん間違ってきてそのたびに間違いを修正する方法も学べたので,間違ったときはさっとミスをフォローしてあげようと思っていた.年上の人は間違うことは絶対ダメと思っているのだと思っていた...
本当に驚いた.
間違っていいんだ,この社会.
(人によるのか)
(最終的に,萎縮しすぎた僕は,それでもひどい対応をしてきた人と仲良くなることで業務を円滑にできるようになると信じ,挨拶をしたりしていた.本当に褒めてあげたい.結果無理だったが.誰も救ってはくれず,相談しても笑って「そうだよねぇ」程度で終わってしまっていたので,結局僕のきつさというのは共有されない,ということもこの時点でよくわかったが.)
こういう人に当たりたかったな.
王様の椅子に座らない
自転車で道を通っているとき,向こうからおじさんが歩いてきた.道幅は狭くおじさんは下を見てスマホをいじっていた.僕は中央から車線横ぎりぎりに寄ったがおじさんはこちらに気づいた様子はあったが,まったく移動しなく,むしろ「お前が移動するのが普通だろ,自転車は人を轢いたら有責になるんだからな」といった調子だった(実際は言われていない).確かに自転車と人がぶつかった場合,どのような状況であったとしても自転車が悪くなる,それは間違いない.だとしても,少しは避ける素振りをしても良いのではないだろうか.そういった話.
素振りを見せるということは,かなり重要なコミュニケーションだと感じている.「その権利は当然だ」という態度でいることは,どんな状況であったとしてもあまり良い気持ちのするものではない.もちろん権利はその人個人に存在しており,それは行使されなければならないものであるけれど,ほんの少しだけ気を使い合うだけでもっと円滑に角が立たないように生きられるんじゃないかと思う.
少し前に,赤ちゃんを生んだばかりの女性が「赤ちゃんは泣くことが仕事なんだから,バスや電車で大声で泣いてもそれは当たり前なことであり,母親である私がわざわざ申し訳無さそうにする必要なんてない.」のようなツイートに相当数のいいねがついていたのを覚えている.確かに言っていることはわかる.赤ちゃんは泣くことが仕事で,みんな小さな頃は赤ちゃんでうるさいくらいに泣いていたはずだ.それに対して,「赤ん坊をバスに乗せるな!/電車に乗せるな!」と言ったことを言うのは非道徳的だ.ただ,だからといって「赤ちゃんは泣き叫ぶものだから,私があやしたところでどうにもならないから何もしない.」という考え方はどうだろうかと思う.例えば,一方バス車内に連日の仕事でほとんど寝れておらず,やっと帰宅できるとバスに乗り込んだサラリーマンがいたとして,赤ちゃんの泣き叫ぶ声が耳に刺さり,母親を見るとスマホをいじっている.これに対して「赤ちゃんは泣くものだから仕方ないな」と思えるほど広い心を持てる人は少ないと思う.
いや,泣くのは仕方がないけれど,自分も疲れていてすごく落ち込んだ気持ちで,でも人に迷惑をかけないように,椅子に座ったとしても小さく座るし,バックはお腹の前に抱えるし,年配の方がいれば席を譲る.そうやって気を使う素振りを見るだけで,「みんな頑張っているんだな」と我慢できることがあるはずと思う.
例えばこの場合だと,お母さんが赤ちゃんを泣き止ませようとする素振りを見せる,という行為がかなり重要だったんじゃないかと感じる.(これは賛否両論ありそうだけれど.)
お母さんは赤ちゃんの泣き叫ぶ声によって誰かに迷惑をかけていると思い泣き止ませようとしたが泣き止まない.それに対して,例えば近くのご老人が「赤ちゃんは泣くのが仕事だからねぇ,元気に泣いてしっかり育つんだよ」とか「お母さんも大変だねぇ,でもここにいる人たちはみんな昔は赤ちゃんだったんだから,あなたの辛さも理解できる.おつかれさま」とかがあれば一気に和やかな雰囲気になると思う.
みんな疲れているし,みんな頑張っている.だからこそ,少しずつ相手の気持ちを思いやって気をつかうことが,生活の質を高める方法なんだと思う.
その一つの方法が「素振りを見せる」だと思うんだけれど,どうだろう?
当然の権利として,その椅子に座って生活してしまうと反感を受けやすい.王様の椅子に座ったからといって偉いわけではないのだ.
僕は優しく生きていたいな.
言葉は伝えたいことの一部でしか無い
最近曲がかけなくなっていた.
というか,書きたい言葉が見つからなくなってしまっていた.
ので,無理やりいろいろな所を引き金にして貪欲に引き出していた.
それが,僕の本当の部分から離れた言葉になっていたような気がして,ずっともやもやな感じがしていた.インストの曲のほうが作りやすく,少しギターを引き出すとインスト感高めの曲に逃げがちだった.
最近は僕らの曲を以前より多くの人達に聞いてもらっていて,よく感想を貰えるようになった.そして,僕の周りのバンドマンはポップスに寄っていっていて(それはそれで良いことで全く否定していない.そもそも僕は最初に聞き出したのはポルノグラフティだし,バンプも大好きで,ポップスに関して全く否定的ではないから,それに関しては本当に誤解しないでほしい.誤解が本当に怖い),(ポップスは伝わりやすい言葉を比較的よく使っているような気がしている.どうしたらその人が考えていることを聞き手に聞きやすくするのか,うまく歌えるか,という点がセンスであって,それがその人達の個性であったりもするのだろう.),その人達のリツイートとかで,僕のタイムラインはポップスの影響をもろに受けた言葉たちが目に映るようになった.
言葉がどう伝わるか,どうすれば伝わりやすいか,というところだ.
わかり易い言葉は,とてもキャッチーで耳に残る.そして,そういう言葉は繰り返し聞きたくなるのだ.それは反響という形で跳ね返ってきて,露骨に突き刺さる.
僕も知らず知らずのうちに,その考え方になりつつあった.
僕が普段 何を考えているか,僕にさえもよくわかっていなく,その頭の中のもやっとした情景を,もやっとしたままどうにかその一部として表層に出しているのが言葉で,その言葉の羅列に寄って,どうにか頭の中を表現していた.それが僕にとっての詩であった.
それがいつの間にか,伝わることを前提に言葉を組み立て始めていたのだ.「どうすれば伝わるのか」というその点について悩んでいて,気づかない間に,僕は言葉を並べることができなくなっていた.
「きみの言い訳は最高の芸術」という最果タヒさんのエッセイがあり,それをふとしたタイミングで読み返した.その中の「わからないくらいがちょうどいい」の中に
小説や新聞の言葉が、物語や情報を伝えるために書かれるのに対し、詩にはそうした目的がない。そして、だからこそ私は、言葉によって切り捨てられてきたものを詩の言葉でならすくいだせると信じている。詩の言葉は、理解されることを必要としていない。人によっては意味不明に見えるだろうけれど、でも、だからこそその人にしか出てこない言葉がそのまま、生き延びている。
と書いてあった.そうだった,そもそも言葉というのは不確かなもので,全部を伝えることなんてできやしなかったことを思い出した.感情一つ伝えるのも容易ではなく,伝わると考えることも間違っている.だって,その人の中のものと,自分の中のものは何一つ同じものなんて無いのだから.名前が同じ違う持ち物を持っているというだけ.伝わるはずがない.言葉を扱うことが多くなって,自分の言葉は伝わるんだ,と勘違いしてしまっていた.大切なことを思い出した.
「意味分かんない」で良かった.その中で,誰か少しの人にとってその言葉が大切な言葉や音楽になってくれればよかった.僕にとってそれが一番大事で,だから外に発信するための音楽をやっているんだった.
誰も僕のことなんて理解できないよ,それでいいんだ.僕も君のことなんてわからない.でもこれは全然冷たい話ではなくて,だからこそわかろうとしたいんだってこと.わからないからこそ寄り添いたいし,近くにいたいし,わからないなりにそばにいたい.近くにいれない人には僕の音楽がそばにいれるようにしたい.
そんなふうに思った.
だから僕はまた詩をかけるなあって思った.
そして,君なりの言葉で僕らの音楽を手に入れてほしいな.
記憶は場所や物に宿る
何かを思い出す時,僕らは必死にそれのつかみになるものをを一緒に思い出す.
記憶喪失になってしまった人が,昔訪れた場所を歩いて回る.
まるで思い出を拾い集める作業をしているようである.
頭の中には直前にあったことくらいしか残っていなく,思い出すときは決まって以前通っていた道であったり,誰かにもらったものであったりする.
思い出は場所や物に宿り,頭の中は少しずつかすれていってしまう.
遠い昔誰かに聞いた覚えがある言葉は,とうの昔に忘れてしまった.きっと僕には今数えられる忘れてしまったこと以上に多くのことを忘れてしまっている.残っているのは傷跡で,傷跡に記憶がこびりついてしまっているんだ.
遠くに行けば行くほど,僕に関しての記憶は分散し存在する.僕という記録がその土地に記憶される.そうして世界に僕の記録が増えていく.それと対象的に僕という存在から一部が抜き取られる.僕が抱えている「僕」をそこに置いていくイメージ.
例えば,自分が持っている「モノ」は捨てにくいと思う.
モノにはたくさんの記憶が巻き付いていて,それは自分の一部をそのモノに与えているからで,自分の一部を捨ててしまうからだと最近は考えている.
自分の手元から離すことで,記憶は帰ってきて,そこで初めて自分の物になる感覚もある気がする.
断捨離をすることで心を軽くする必要があるのかもしれない.
自分の近くには,ある一定の量の記憶しか留めておくことができず,それが多くなってしまうと心が形を保てなくなる.だから外に出す必要がある.
それを心の浄化と言うんじゃないだろうか.
遠くに行こう.遠くへ.
まだ見たことがない地へ.
そこで記憶を置いておこう.
いつかそこに再び訪れた時に,懐かしい話ができるように.
君の心に住み着いた魔物は,すこしお仕置きしてあげよう.
遠くへ,遠くへ置いていこう.
時間が経てば,魔物もしょんぼりしてしまうからね.
そして,出会った時だけ挨拶をして,懐かしい話をしよう.
「君がいたことで,今の私があるんだ.だから感謝している」と伝えてあげよう.
そして,また記憶が風化した時に会いに来るよ.
あの時君にもらったチョコレートを,僕は食べずに捨ててしまった.君の記憶のチョコレートは僕の記憶のチョコレートにもなった.なんてね.